Xで、冷蔵庫の中身を女性が次々と床へ放り出していく動画を見た。
説明によれば、夫の母親が故郷から何度も電車を乗り継ぎ、息子のために白菜を十個持ってきた。夫は帰り際、母親に千元、日本円で二万円ほどを渡した。それを知った妻が激怒し、白菜をめちゃくちゃにしたのだという。
題して「母の愛vs妻の怒り」。
いかにもSNS向きの対立である。
苦労して白菜を運ぶ母。
親孝行する息子。
食べ物を粗末にする妻。
説明文を読んだ瞬間、登場人物の善悪が自動的に配置される。返信欄も、おおむね「食べ物を粗末にするな」「嫁姑問題は怖い」という反応だった。
しかし、動画を何度か見返しているうちに、少しずつ話が変わって見えてきた。
女性は、我を忘れて手当たり次第に物を投げているようには見えない。冷蔵庫の中をのぞき、一つ取り出し、少し確認してから床へ落とす。
「これは義母から来たもの。はい、排除」
そんなふうに、一つ一つを吟味しているようにも見える。
しかも、片手にはずっとスマホを握っている。
家族の共有物は床へ投げても、自分のスマホは離さない。
撮影者のほうも、妻を止めない。なだめない。怒鳴り返さない。ただ少し離れた場所から、淡々とスマホを向けている。
この構図が、なんとも現代的だった。
怒りや嫉妬や嫁姑のもつれ自体は、きっと太古の昔からあった。人類が群れや家族を作り始めた頃から、親族、食料、役割分担をめぐって揉めてきただろう。
けれど今は、同じ家に暮らす二人が、それぞれ別のスマホ世界を携帯している。
普段は、同じ部屋で別々の画面を見る。それはそれで快適だ。スマホの中では、嫌な相手を閉じ、耳障りのよい意見を選び、退屈すれば次へ進める。
しかし現実の同居人は、スワイプして消せない。
相手の親もいる。
お金の使い方も違う。
食べ物の好みも違う。
疲れていても話し合わなければならない。
本来、共同生活とは、そうした面倒な他者性に耐えながら、説明し、譲り、待ち、妥協する基礎筋力を身につけていく営みなのだと思う。
ところが、この動画の二人は、一方が共有空間を破壊し、もう一方がそれを記録している。
話し合う妻と夫ではない。
破壊者と撮影者である。
もっとも、白菜十個というのも、よく考えると相当である。
白菜は、受け取った瞬間から仕事になる。
置き場所を確保する。
冷蔵庫を整理する。
献立を考える。
洗う。切る。煮る。
食べきれなければ配り先を探す。
傷めば処分する。
愛情の宛先は息子なのに、その愛情を家庭内で処理する労働は妻に向かう。
仮に夫が、
「母さんが持ってきた白菜だから、お前が何とかして」
などと言っていたなら、妻が怒る理由も分からなくはない。
さらに夫婦のお金から、相談なく千元を渡していたとしたら、
義母は白菜を持ち込み、感謝され、お金まで受け取る。
妻は保存、調理、再配布を担当し、そのうえ怒れば悪妻にされる。
これはなかなか厳しい。
私なら白菜を床へ投げたりはしない。
笑顔で、
「はい、愛するお母さまの白菜をジュースにしたよ」
「今日のお弁当は、白菜ご飯、白菜汁、おかずも白菜です。塩をかけて食べてね♥」
と差し出すだろう。
自分も食べろと言われたら、
「とんでもない。大切なお母さまが「あなたのために」った白菜よ。一枚も無駄にしちゃだめ。私はカレーで十分」
と辞退する。
ブッダ式に、
「私は受け取らない」
でもよい。
保存、調理、配布、廃棄まで、愛情の受益者本人に返すのである。
そこで夫が怒り出したら、静かにスマホを取り出して撮影する。
……と考えて笑っていたのだが、動画の最後まで見ると、また印象が変わった。
女性は撮影者へ詰め寄らない。「撮るな」とも言わない。カメラを威嚇するでもなく、妙に静かな顔で前を通り過ぎていく。

本当に夫へ激怒しているなら、撮影している夫こそ最大の標的になりそうなものだ。
そもそも白菜十個は、画面内には二、三個ほどしか見えない。十個もの白菜を、年配の母親が何度も電車を乗り継いで、どうやって運んだのか。段ボールなのか、巨大な袋なのか。その痕跡もよく分からない。
そして、動画に映っているのは女性と散乱した食品だけである。
母親も映っていない。
千元も映っていない。
夫婦の会話も映っていない。
「遠方から来た母」「白菜十個」「千元」「ホクホク顔で帰宅」という部分は、すべて後から貼られた物語だ。
そう考えると、この動画は家庭内の実録というより、筋書きのある寸劇にも見えてくる。
あるいは、映像そのものは本物でも、別の喧嘩に「母の愛vs妻の怒り」という物語が載せられただけかもしれない。
結局、私が見ていたのは、白菜事件そのものではなかった。
真偽不明の短い映像に、もっともらしい説明文が付く。私たちはその瞬間、母、息子、妻の性格や、それまでの夫婦生活まで想像し、誰が悪いかを判定し始める。
そして私も、白菜協定を作り、義母の境界感覚を疑い、夫の家計管理を批判し、妻の内面を読み取り、最後には作り物説まで唱えた。
白菜二、三個から、ずいぶん遠くまで来たものである。
ただ、この寄り道はなかなか面白かった。
映像が本物でも作り物でも、そこには現代の私たちが反応してしまう要素が詰まっている。
親の善意。
配偶者への無断。
贈り物に隠れた労働。
家族の境界。
スマホによる並行生活。
話し合いの代わりの撮影。
そして、SNSという公開裁判所。
もしかすると、この動画で最も現代的なのは、妻がスマホを離さなかったことでも、夫が撮影を続けたことでもない。
事情を何も知らない私たちが、二台のスマホの向こう側から、夫婦の白菜協定を勝手に審議していることなのかもしれない。

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