「国難だから黙って従え」と言われたとき――大きな力が作る二択から、個人はどう逃れるか

私が21年間、公務員として働いてきて、一番許せないことは何か。

理不尽な市民対応でも、忙しかった部署でもない。

東日本大震災の後、給与を減額されたことである。

こう言うと、

「たった数%でしょう」
「被災者に比べたら大したことではない」
「国難なのだから、公務員も痛みを分かち合うべきだ」

と思われるかもしれない。

ケチ、守銭奴、非国民と呼ばれるかもしれない。

しかし、給与の7.8%は小さくない。

給料から家賃、食費、光熱費、税金、社会保険料、将来のための貯蓄を引いたあとに残る、自由に使えるお金は、もともと給与全体の一部にすぎない。

固定費と貯蓄額を維持しようとすれば、削られるのは旅行、外食、趣味、本、人付き合いといった、自分の人生の部分である。

給与全体では7.8%でも、自由に使えるお金の半分が消えることだってある。

そもそも、サラリーマンは、

「この金額を支払ってもらえるなら、私は自分の時間と労働を差し出します」

という交換をしている。

給与は、国から善意でもらっているお小遣いではない。

それなのに国は、東日本大震災という、誰も反対しにくい大義を持ち出して、約束していた労働の対価を一方的に減らした。

私には、人の財布に手を突っ込んで金を抜き取られたように感じられた。

本当に復興財源が必要なら、国債でも、社会全体への復興増税でもよかったはずである。

実際、復興特別所得税は広く国民に課された。公務員も当然、それを負担している。

それとは別に、なぜ公務員だけが給与まで減らされなければならなかったのか。

恐らく、公務員給与を減らすことには、財源確保だけではなく、象徴的な意味があった。

「政府も身を切っています」
「公務員も国民と痛みを共有しています」

という物語を作りやすい。

しかし、実際に切られたのは政府という抽象物ではない。

一人ひとりの職員の生活である。

しかも、公務員は反論しにくい。

「被災者を助けたくないのか」
「自分の給料だけが大切なのか」

と言われれば、黙るしかない。

私は入庁6年目の若い時期に、この出来事を経験した。

そこで、国や制度について、一つのことを深く学んだ。

平時には条件を示して自分を働かせておきながら、非常時になれば、制度は大義名分を掲げ、その条件を一方的に変更することがある。

そして、異議を唱えようとする者から、言葉まで奪う。

教師は、150万円を払って働くべきだったのか

同じ時期、埼玉県では、退職手当の引下げを目前にして、教員の早期退職が問題になった。

制度の施行前に退職すれば、従来の退職金を受け取れる。

年度末まで残れば、退職金が約150万円減る。

差分だけを見れば、教員に示された選択肢はこうである。

A:今退職すれば、150万円を失わず、その後の2か月間は働かなくてよい。

B:150万円を失ったうえで、さらに2か月間働く。

2か月分の給料を受け取るとしても、退職金の減額のほうが大きければ、働くほど損をする。

普通に計算すれば、Aを選ぶのが合理的である。

ところが、早期退職を選んだ教員は、

「子どもを見捨てた」
「教師として無責任だ」
「金よりも生徒を選ぶべきだ」

と批判された。

制度が、働くほど損をする選択肢を作った。

それにもかかわらず、制度設計の異常さではなく、合理的な選択をした個人の道徳心が問題にされた。

教師なら使命感があるはずだ。

子どもを思うなら、150万円を失ってでも残るはずだ。

つまり、制度は教員の使命感を、人件費の代わりに使おうとしたのである。

これは、職業倫理を尊重したのではない。

職業倫理を人質に取ったのだ。

「良い教師なら、自腹を切って働きますよね」

という圧力である。

公務員だから。

教師だから。

医療従事者だから。

母親だから。

日本人だから。

その立場にふさわしい人間なら、自己犠牲を受け入れるはずだ。

拒否するなら、その立場に値しない。

この論法は、対価や権利の話を、人格や忠誠心の話へすり替える。

負けたほうが得なのに、なぜ全力で勝たないのか

2012年のロンドン五輪では、女子バドミントンの無気力試合が問題になった。

目の前の試合に勝つと、決勝トーナメントで自国同士のつぶし合いになる。

自国のメダル獲得数を最大化するためには、目の前の試合で負けるしかない。

実際に選手たちは進んで負けようとし、失格になった。

もちろん、全力を尽くして戦わなければならないというルールはある。

観客も、わざとミスをする茶番を見に来たわけではない。

しかし、その一方で、負けることを合理的にした、予選順位で決勝トーナメントの組み合わせが決まってしまうという大会ルール側に明確な問題があった。

それなのに、制度を設計した側ではなく、制度に合理的に反応した選手だけが「スポーツマンシップに反する」と処罰された。

教員の早期退職と同じである。

制度が望ましくない行動を合理的にしたあと、その行動を選んだ個人の道徳心を非難する。

これは、制度の失敗を個人の人格問題にすり替える方法である。

コロナ禍では、身体について同じことが起きた

そして、私はコロナ禍でも、よく似た圧力を感じた。

国が大きな方針を決める。

社会全体が一方向へ動く。

個人では抗いようのない大きな波が起きる。

その方針に疑問を示すだけで、

「科学を信じない人」
「他人の命を軽視する人」
「社会に協力しない人」

と扱われかねない。

私は、ワクチンを闇雲に否定したかったわけではない。

支配者が謎の物質を入れて人間を操るとか、すべて医療利権だとか、そういう話がしたいのではなかった。

私が求めていたのは、自分の身体について自分で判断するためのデータだった。

ワクチンによって、

自分の感染確率はどれだけ下がるのか。

重症化や死亡は、年代別にどれだけ減るのか。

他人への感染をどれだけ防げるのか。

その効果は何か月続くのか。

副反応や重大な有害事象は、何人に一人なのか。

分かっていないことは何なのか。

相対リスクだけではなく、絶対リスクではどの程度なのか。

その情報を示したうえで、私に選ばせてほしかった。

言うまでもないが、私の身体は、この宇宙に一つしかない。

医療介入の利益を社会全体が受けることはあっても、その身体上の結果は、最終的に私一人が引き受ける。

だから、私は、私の身体に対しての「説明責任」があるのだ。

もちろん、私は自己犠牲そのものを否定しているわけではない。

目の前で子どもが川に流されていれば、自分にも危険があっても助けに行くかもしれない。

駅のホームから人が落ちたなら、電車が来ていない線路側へ誘導するために降りるかもしれない。

私が多少の危険を引き受けることで、一人の命が助かる可能性が大きいなら、私はその危険を選ぶかもしれない。

しかし、その判断には天秤が必要である。

私の危険はどの程度か。

相手が助かる可能性はどの程度か。

私が行動しなければ、何が起きるのか。

燃え盛る家の中に人が取り残されていても、もはや助かる可能性がなく、入れば自分も確実に死ぬなら、私は入れない。

それは冷酷なのではなく、利益と危険の比較である。

コロナワクチンでも、同じ比較をしたかった。

ところが、データは不十分で、説明は時期によって変わり、感染予防なのか、発症予防なのか、重症化予防なのか、社会全体への利益なのかが曖昧になった。

それでも、判断だけは迫られた。

そして、慎重に考えようとする態度そのものが、非協力的であるかのように扱われた。

私が嫌だったのは、まさに、

判断に足るデータがないのに、判断しろと迫られること

だったのだと思う。

大きな力が作る「二択」を疑う

東日本大震災の給与減額。

退職金を守るか、教師としての使命を守るかを迫られた教員。

勝利を目指すなら、目の前の試合で負けるほうが合理的になった選手。

十分な比較材料がないまま、接種するか、社会的に疑われるかを迫られた人。

これらには、共通する構造がある。

制度が、個人に不合理な二択を提示する。

Aを選んでも損をする。

Bを選んでも損をする。

そのうえで、制度を作った側は、

「どちらを選ぶかはあなたの自由です」

と言う。

しかし、片方を選べば金銭的に罰せられ、もう片方を選べば道徳的に罰せられるなら、それは自由な選択とは言いにくい。

そして個人が、少しでも自分を守る選択をすると、

「公共心がない」
「子どもを見捨てた」
「スポーツマンシップがない」
「他人の命を考えていない」

と責められる。

このとき、個人が最初にすべきことは、AとBのどちらを選ぶか考えることではない。

なぜ私は、この二択に追い込まれているのか

と問うことである。

第三の選択肢はないのか。

制度の目的を達成しながら、個人の損害を減らす経過措置はないのか。

誰がこの選択肢を作ったのか。

利益を受ける者と、危険や損失を負う者は同じなのか。

個人の使命感、善意、愛国心を、無償の資源として計算していないか。

制度上の失敗を、個人の道徳問題へすり替えていないか。

この問いを持つだけでも、見える景色は変わる。

選択肢があるように見えることすらある

現実には、大きな制度に対して、個人が勝てないことが多い。

しかし、そこで起きていることは、いつも「不利な二択を迫られる」という形ですらない。

そもそも、選択肢が与えられていないことがある。

東日本大震災後の給与減額について、公務員個人には、

「減額を受け入れる」
「従来の給与を受け取る」

という二つの道はなかった。

法律や条例が変われば、給与は問答無用で減らされる。

異論を唱えても、翌月の支給額を変えることはできない。争議行為によって対抗することもできない。しかも、「被災者が苦しんでいるときに、自分の給料の話をするのか」という圧力によって、反対を表明する言葉まで奪われる。

これは、二択ではない。

制度が一方的に結果を決定し、個人には、それを黙って受け入れることだけが残されている。

コロナワクチンの場合は、形式上は、

「接種する」
「接種しない」

という選択肢があった。

しかし、二つの選択肢が同じ条件で並べられていたわけではない。

接種する人は、科学を信頼し、他者の命を守り、社会に協力する人。

接種しない人や様子を見る人は、非科学的で、身勝手で、他人を危険にさらす人。

そのような道徳的評価が、あらかじめ選択肢に結びつけられていた。

さらに、国や医療機関と個人との間には、圧倒的な情報の非対称性がある。

個人が本当に知りたい、年代別の感染・重症化・死亡の絶対リスク、接種によってそれがどれだけ減るのか、他者への感染をどれだけ防ぐのか、長期的に何が分かっていないのかという情報は、十分に比較できる形で示されなかった。

一方の選択を強く推奨しながら、その判断に必要な材料は十分に渡さない。

それでも、

「最後に決めたのは本人です」

という形だけは残る。

これは完全な強制ではない。

しかし、自由で対等な選択とも言いにくい。

選択肢は紙の上にはあるが、一方の道には、非国民、非科学的、無責任という社会的制裁が置かれている。

つまり、選べるように見えて、実際には一方向へ押し流す擬似的な選択である。

それに比べると、埼玉県の教員には、残酷ではあっても選択肢が見えていた。

制度の施行前に早期退職し、退職金を守る。

年度末まで勤務し、約150万円の減額を受け入れる。

どちらを選んでも不利益があるという、明白なダブルバインドだった。

しかし、選択肢が見えていたからこそ、一部の教員は早期退職という方法で、制度が期待した自己犠牲から逃れることができた。

そして逃げた人たちは、「子どもを見捨てた」と道徳的に攻撃された。

ここには、少なくとも三つの段階がある。

第一に、給与減額のように、選択肢そのものがなく、結果だけを一方的に受け入れさせられる強制。

第二に、ワクチン接種のように、形式上は選択肢があっても、情報の非対称性と同調圧力によって、一方の道が事実上封鎖されている擬似選択。

第三に、教員の早期退職のように、二つの道は見えているが、どちらを選んでも金銭的または道徳的に罰せられるダブルバインド。

大きな力が個人を支配するとき、必ずしも露骨に「従え」と命令するわけではない。

選択肢を消す。

一方の選択肢に社会的制裁を置く。

どちらを選んでも傷つく二択を作る。

そして最後に、

「あなた自身が選んだのです」

と言う。

だから個人が最初に確かめるべきなのは、AとBのどちらが得かだけではない。

本当にAとBは存在しているのか。

一方の道は、法的、経済的、社会的な圧力によって、最初から閉ざされていないか。

自分は選んだのか、それとも選ばされたのか。

選択の形式だけを与えられ、結果への責任を個人へ移されていないか。

そして、選択肢が一つしかない場合であっても、従ったことと、納得したことは同じではない。

給与を減らされたからといって、減額の正当性に同意したことにはならない。

社会的圧力の中で接種したからといって、十分な説明を受け、自由に同意したことになるとは限らない。

早期退職を選んだからといって、子どもを軽視したことにはならない。

個人に残された最初の抵抗は、

「私はこれを自由に選んだのではない」
「ほかの道が閉ざされた中で、この行動を取らされた」
「結果には従うが、その正当性には同意していない」

と、状況を正確に認識し、形に残すことである。

「選んだ」ことと、「納得した」ことは違う

現実には、大きな制度に対して個人が勝てないことも多い。

問答無用で給与は減らされる。

退職日を選ばなければならない。

接種するかしないかを期限までに決めなければならない。

その場では、どちらかを選ばざるを得ないかもしれない。

しかし、重要なのは、

選んだことと、納得したことを同じにしない

ことである。

「期限があるため、やむを得ずAを選ぶ。しかし、AかBしか与えられなかったこと自体には納得していない」

「この選択によって生じる不利益について、権利を放棄するものではない」

と、形に残す。

口頭で不満を言うだけではなく、メール、文書、照会、要望書として残す。

法的根拠を尋ねる。

不利益の計算を示す。

代替案を提案する。

誰が、いつ、何を説明したかを記録する。

後から、

「本人も納得して選んだ」
「当時は誰も問題にしていなかった」
「自主的に協力した」

と処理されないようにする。

それですぐに制度が変わるとは限らない。

金銭的な損失が回復されないこともある。

それでも、自分の中で、

「私は自分から差し出したのではない」
「この不合理さを認識し、異議を述べた」
「大義に飲み込まれて、自分の感覚まで明け渡したわけではない」

と確認できる。

それは小さいようで、とても大切な抵抗だと思う。

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