「科学的」って何だろう?――エビデンス、堀大輔、TikTok、そして散らかっていく情報空間

最近、「エビデンス」という言葉が妙に気になっている。 SNSを開けば「その話、エビデンスあるの?」と問われ、職場でも「エビデンスに基づいて判断しよう」と声高に語られる。テレビのコメンテーターも好んで使う。なんとなく意味は通じている気はする。だが、よくよく観察してみると、人によってこの「エビデンス」が指し示すものはかなりバラバラなのだ。

ある人にとっては学術論文であり、ある人にとっては統計データ。かと思えば、単なる会議の議事録やメールの文面、録音データを指す人もいれば、あろうことか「自分が実際に経験した」という個人の体験談すらエビデンスと呼ぶ人までいる。そう考えると、この言葉は便利なようでいて、実はかなり危うい響きをはらんでいる。

「ソース」と「エビデンス」は同じなのか

そもそも、「情報がどこから来たのか(ソース)」と「その情報がどれほど確からしいのか(エビデンス)」は、まったく別の問題である。

たとえば、ある人がSNSで「私はこんな被害を受けた」と投稿したとする。この投稿は、「その人がそう主張した」という事実を証明するソース(出所)にはなる。しかし、「その投稿に書かれた出来事が本当に起きたのか」という別の問いに対しては、それだけでは証拠として不十分なことが多い。客観的な録音や映像、第三者の証言などが必要になってくるからだ。

ところが日常会話では、「ソース」「根拠」「証拠」「裏付け」「事実確認」、そして「エビデンス」といった言葉が、かなり曖昧に溶け合ってしまっている。 職場で上司から「これのエビデンスは?」と詰め寄られたとき、「それは出典のことですか? それとも先方の了承メールですか? 数字の根拠資料ですか? 証人のことですか?」と内心聞き返したくなることはないだろうか。それなら最初から「出典は?」「了承メールは残ってる?」「この数字の根拠資料は?」と具体的に聞いた方がはるかに早い。わざわざ横文字にしたことで意味が精密になるどころか、むしろ解釈の幅がぼやけてしまっているのだ。

それでも「エビデンス」には科学っぽい響きがある

それでも、「その説にエビデンスはありますか?」と問われるとき、私たちは単なる個人のメモや体験談以上のものを期待している。特に医療や健康の話題になれば、それは「論文に基づくか」「比較試験は行われたか」「統計的な裏付けはあるか」といった、より厳密な意味合いに近づく。

つまり「エビデンス」は、意味の広い言葉ではありつつも、決して無色透明ではない。「客観的で、検証可能で、専門的な裏付けがあること」、要するに「科学的であること」へと重心が寄っている言葉なのだ。しかし厄介なことに、私たちが頼りにしているこの「科学的」という言葉自体が、よくよく考えてみるとかなり曖昧な概念として消費されていることに気づく。

「科学的」はファイナルアンサーなのか

日常語として使われる「科学的」は、往々にして「正しい」「すでに証明済み」「専門家のお墨付き」「オカルトではない」くらいの意味合いで片付けられがちだ。場合によっては、「科学的=ファイナルアンサー」として扱われていることすらある。「教科書に載っているから」「有名な科学者が言っているから」、だから未来永劫正しいのだ、と。

しかし、本来の科学の営みはむしろその逆ではないだろうか。目の前の現象に対して仮説を立て、観察し、測定し、実験を繰り返す。別の誰かが同じことをしても再現するかを確かめ、もし自説に都合の悪い結果が出れば、潔く仮説を修正する。科学の本当の強さは「絶対に間違わないこと」ではなく、「間違いを見つけて修正できる仕組み(自己修復機能)」を持っていることにある。

ところが、私たちが学校で理科を習うときには、「正解はすでに教科書に書いてあります。では実験でそれを確認しましょう」というプロセスになりやすい。その結果、科学が「すでに確定した正解を暗記する学問」のように見えてしまうのだ。本当は、「この説明は本当に正しいのか?」と果てしなく疑い続ける営みなのに。この本質を取り違えると、「科学を信じる」という態度が、いつの間にか「科学とされているものを疑ってはいけない」という単なる信仰へとすり替わってしまう。

「反証」という発想が日常にはほとんどない

特に日常生活の中で決定的に欠けているのが、「反証可能性」という視点だ。ある仮説に対して、「何が起きたら、あなたのその説は間違いだったと認めますか?」と問うこと。これは非常に強力な試金石になる。

たとえば、「この法則を信じれば人生は好転します」という主張があったとする。成功すれば「ほら、効果があった」と言い、失敗すれば「あなたの信じ方が足りなかったのだ」と言い逃れができるなら、その理論はいつまで経っても負けることがない。何が起きても「正しい」ことにできてしまうからだ。

一方で、「この条件を与えれば、A群の方がB群よりも血圧が下がるはずだ」という仮説なら、実際に測定して白黒をつけることができる。もし結果が逆に出れば、仮説にとって都合が悪い。つまり、最初から「自説が負ける可能性」をフェアに許容しているのだ。科学には、自分の仮説を意地でも守り抜く仕組みではなく、あえて自分の仮説を壊せる仕組みが組み込まれている。ここが決定的に重要なのだ。

私の頭に浮かんだ「岩山」

そんなことを考えているうち、私の頭の中に一枚の対照的な風景が浮かんだ。

左側には、長い年月をかけて無数の「岩」が積み上げられた巨大な山がある。一つ一つの岩は、過去の観測事実であり、実験結果であり、再現された知見や既存の理論だ。その岩山の頂上に、一人の研究者が立っている。彼の頭上にはまだ置かれていない次の岩、すなわち「未知」が広がっている。 一方、右側には何もない平らな地面が広がっている。そこに誰かがやってきて、「ここに新しい真実がある!」と一本の旗を立てる。ここにあるのもまた「未知」である。

表面的に見れば、左の研究者も右の旗を立てた人物も、共に「まだ完全には証明されていないこと」を語っているように見える。そのため、「どちらの説も、まだ科学では解明されていないんでしょう?」と同列に扱われがちだ。 しかし、両者はまったく違う。左側は、何十年、何百年とかけて先人たちが積み上げてきた岩の「上」にある未知である。対して右側は、その旗を支えるための岩が一つも積まれていない。同じ未知でも、そこに至るまでの「高さ」が決定的に違うのだ。

量子力学の最先端における「まだ分かっていないこと」と、「輪廻転生はある」「宇宙意識が存在する」といった主張が、「科学でも完全には解明されていない」という一点のみをもって横並びにされることがある。前者は、既存の膨大な観測結果によって強烈に拘束された上での未知だ。新理論を出すなら、これまでに積み上がった膨大な観測結果を矛盾なく説明しなければならない。一方、後者を哲学や宗教として楽しむ分には構わないが、そこから一歩踏み出して人体への作用や治療効果など「経験的な現象」を主張するのであれば、「どうやって測るのか」「どう再現するのか」、そして「何が起きればその説は間違いになるのか」という厳しい問いを通過しなければならない。

「科学にも分からないことがある」という事実が、「だから私のトンデモ説も同じくらいあり得る」という免罪符にはならないのだ。

堀大輔氏の睡眠論を見ていて感じたこと

ここで思い出したのが、自らを「ショートスリーパー」と称する堀大輔氏をめぐる睡眠論争である。

私が見たある番組では、睡眠中の脳内物質のクリアランスについて「従来説とは逆方向の研究結果もある」という話が出ていた。それ自体は科学の世界ではごく普通のことだ。睡眠中の脳で起きていることには未解明な部分も多く、有力な仮説に対して異なる結果が出れば、それをさらに研究する。健全なプロセスである。

私が気になったのは、その先の論理展開だった。 「睡眠のメカニズムは100%完全には分かっていない」から始まり、「だから、一般的に言われる6〜8時間睡眠が必要だという説も100%正しいわけではない」、ゆえに「私が提唱する『睡眠時間を極端に削れる』という説も完全には否定できないはずだ」「実際、自分や受講者は睡眠時間を減らせている」と続く流れである。

既存の睡眠科学に未解明な部分が残されていることと、「天然のショートスリーパーではない一般人でも、訓練次第で健康を保ったまま必要睡眠量を大幅に減らせる」というまったく新しい仮説が支持されることは、イコールではない。左側の岩山の一番上に乗っている岩が少し揺れたからといって、右側の平らな地面に突然立派な岩山が出現するわけではないのだ。

それはまるで、「宝くじは当たるか、外れるかの二つに一つ。だから確率は50%ずつだ」と主張するのに似ている。可能性が二つ存在することと、その二つが同じ確からしさ(確率)で存在することはまったく別問題である。「科学でも100%確定していない」という一点だけを突破口にすれば、どんなトンデモ仮説でも同じ土俵に並べられてしまう。だが実際には、その足元に積まれている「岩の量」が絶望的に違うのだ。

相手の岩山を崩すことと、自分の岩山を作ることは別

ここで重要になってくるのが「立証責任」である。 新しい奇抜な説を世に問うのであれば、「既存の定説にはこんな穴があります」と指摘するだけでは不十分だ。求められるのは、「では、あなたのその新しい仮説を支持する客観的なデータは何ですか?」というシンプルな問いへの回答である。

さらに踏み込むなら、こう問うべきだ。 「その主張を直接検証した査読付き論文はあるか?」 「対象となったサンプル数は何人か?」 「主観的な自己申告ではなく、客観的な脳波計などで睡眠を測定したのか?」 「日中の認知機能や長期的な健康リスクはどう追跡したのか?」 「別の研究者がそれを再現できたか?」

この質問の強みは、相手の説をこちら側が全力で否定して見せる必要がないことにある。「あなたの説は絶対に間違っている」と血筋を立てて証明しなくてもいい。ただ静かに、「それを主張するなら、あなたの足元にある岩(エビデンス)を見せてください」と促せばいいのだ。 番組内で精神科医の兼子氏が堀氏側に対して「査読付き論文はありますか?」と尋ねていたのは、まさにこの本質を突いた極めて真っ当な質問だったと思う。既存説を100%だと断言できないことは、決して新説が正しいことの証拠にはならない。

「睡眠時間を減らせた」と「必要睡眠量が減った」は違う

この議論には、巧妙な言葉の罠も潜んでいる。 「気合で睡眠時間を短くできた」という事実と、「身体が本来必要とする睡眠量そのものを短縮できた」という事実は、まったく別物だ。ただ単に目覚ましをかけて睡眠時間を削ることなら、無理をすれば多くの人にできる。問題は、その結果として注意力、判断力、反応速度、精神的な安定、そして長期的な疾病リスクなどがどう変化するのか、である。

さらに言えば、「睡眠時間が5時間減った」からといって、ただちに「有意義に使える可処分時間が5時間増えた」とは限らない。1日22時間起きていたとしても、そのうちの数時間をぼんやり過ごしたり、強烈な眠気に耐えたり、作業能率が著しく低下したりしているのなら、時計の上の「覚醒時間」と実効的な「可処分時間」はイコールではない。したがって、単に「何時間起きていられるか」だけを実演して見せても、仮説全体の科学的な検証にはなり得ないのだ。

7日間ライブは何を示したのか

堀氏は自身の主張を証明する趣旨で、長時間にわたる密着ライブ配信を行っていた。もし仮に彼の主張を「極端に短い睡眠でも、健康で高い活動性を維持でき、可処分時間が増える」と定義するなら、このライブ配信は本来、自説の正しさを証明する重要な実演実験になり得たはずだ。

実際に長時間にわたり高いパフォーマンスを維持し続けられたなら、それは自説を支える一つの強力な観察事実になる。逆に、配信中に激しい眠気に襲われたり、居眠りらしき場面が映ったり、活動が長時間途切れたりすれば、少なくとも「睡眠を削れば、その分だけ有効な活動時間が増える」という主張に対しては、非常に都合の悪い結果となる。

もちろん、たった一人の7日間配信だけで、長期的な健康リスクや他人への応用可能性までを判定することはできない。しかしここで興味深いのは、「もし自説にとって不利な観察結果が出たとき、それを理論を修正するための材料として素直に扱う姿勢があるか」という点である。科学であれば、「自分の仮説のどこが間違っていたのか?」「測定方法に不備はなかったか?」「本人が自覚していない微小睡眠(マイクロスリープ)があったのではないか?」と検証を深める。結果がどうであれ自説をいっさい曲げないのであれば、その理論は「反証可能性」を持たない単なる信仰になってしまう。

ところが配信としては、どちらでも成功する

しかし、ここで話は急に現代のTikTokやYouTubeといったプラットフォームの論理へとスライドしていく。 科学的な検証の場においては、「実験が成功したか、失敗したか」がすべてである。しかし、エンタメの世界では「どちらに転んでも美味しい」のだ。

もし本当に寝なかったら、「本当に寝ない!すごい!」とバズる。もし寝てしまったら、「おい、寝たぞ!」とツッコミで盛り上がる。映像が途切れたら、「あの空白の時間に寝ていたんじゃないか?」と憶測が飛び交う。 つまり、科学的な実証実験としては失敗であっても、配信コンテンツとしては大成功を収めることができる構造になっているのだ。

これは以前触れた、「UFOを呼べます!」と豪語するタレントと同じである。本当にUFOが来れば大騒ぎになり、来なかったとしても「今日は波動が乱れていて来ませんでした!」と言い張れば、それ自体が立派な番組として成立する。そこで消費されているのは「結果の真偽」ではなく、「次に何が起きるか」というサスペンスそのものなのだ。

そして「寝ろ」「ばーか」がコンテンツになる

その後、TikTokで堀氏と別の配信者(堀江貴文氏)がオンラインでつながり、激しく言い合っている映像を目にした。そこで飛び交っていたのは、「寝ろ」「ばーか」「おまえ」といった原始的な罵倒の応酬だった。

最初は意味が分からなかった。「睡眠のメカニズムについて激論を交わしているのか?」と思って見ていたが、議論らしい議論は一向に始まらない。そこでようやく気づいたのだ。彼らは最初から議論などする気がなかったのだ、と。 目的は、相手を怒らせ、動揺させ、強い返答を引き出すこと。そして、そのバチバチにやり合っている数十秒間を「切り抜き動画」にすること。それ自体が目的なのだ。

この情報市場においては、「論理的な対話を構築する能力」よりも、相手を煽って「対話を破壊する能力」の方が、時に高い市場価値を持ってしまう。これは控えめに言っても、極めて奇妙で歪んだ現象である。

小学校にTikTokの報酬表を持ち込んだら

もし仮に、この「対話を壊して注目を集めた者が勝つ」という報酬構造を、小学校一年生の教室に持ち込んだらどうなるだろうか。

先生が「みなさん、おはようございます」と言えば、児童Aが「うるせー、ばーか」と返す。先生が「席についてください」と促せば、児童Bが「おまえが席に座ってろ」と野次る。それに呼応して他の児童たちも「座れ」「すーわーれー」と囃し立てる。先生が「席につかないと授業できません」と諭せば、児童Eが「仕事しろ、ばーか」と罵る。

もしこんな児童がクラスに一人だけなら、教室の異端児として注目を集めるかもしれない。しかし、クラス30人全員がこの「対話破壊戦略」を採用した瞬間、授業というシステムそのものが完全に崩壊する。

現在の情報空間で起きているのは、まさにこれと同じことだ。最初は一人だけが強い言葉を使えば目立てた。しかし、誰もが同じ手法を使い始めると、より強い刺激がなければ注目されなくなる。「衝撃」「完全終了」「真実を暴露」「専門家が隠している」「常識は嘘だった」……。刺激のインフレが止まらなくなり、その結果、情報空間全体が足の踏み場もないほどに散らかっていく。

科学は積み上げる。煽りは散らかす

この惨状を見ていて、「エントロピー」という言葉が頭に浮かんだ。物理学の概念をそのまま社会に当てはめるわけではないが、比喩として考えると非常にしっくりくる。

科学の営みとは、膨大なノイズの中から少しずつ「秩序」を作っていく仕事だ。バラバラの観察事実を根気よく集め、仮説を立て、検証し、反証を試み、再現し、知識体系として美しく整理していく。 一方、煽り型の情報発信がやっていることはその真逆だ。文脈を意図的に切り取り、極端な対立構造をでっち上げ、人々の感情を刺激し、誤解を増幅させ、さらにその一部だけを切り抜いて拡散する。せっかく築き上げられた秩序だった情報を、もう一度バラバラの「ノイズ」へと引き戻していく行為である。

そして恐ろしいことに、現在の情報市場では後者の方が手っ取り早く儲かる。 真面目な研究者が10年の歳月をかけてコツコツと岩を積み上げる。そこへ異端を気取る発信者がやってきて、「でも逆の説もあるらしいですよ」という無責任な一言で岩山を揺らす。さらに別の煽り系配信者がやってきて、岩山を揺らしている人間に向かって「寝ろ、ばーか」と蹴りを入れる。それをまた誰かが切り抜く。

研究者は岩を積む。 異端者は岩山を揺らす。 煽り屋は、揺らしている人を蹴る。

結果として、一番大きな歓声が上がり、最も多くの広告収入が集まるのは「蹴りを入れた人間」のところなのだ。現在の言論空間は、時としてそんな絶望的な構造に見えてくる。

AI時代には「文章が立派」は何の保証にもならない

この極度に散らかった空間に、さらに「生成AI」という黒船がやってきた。 AIは、もっともらしい文章を大量に、かつ瞬時に生成できる。専門用語を巧みに操り、いかにもそれらしい引用を並べ、筋が通っているかのような論理的な文体を作り出す。 これが意味するのは、「文章が知的に見えること」と「内容が本当に正しいこと」が、完全に分離する時代になったということだ。

昔は、広く流通する情報には必ず「門」があった。出版社、編集者、新聞社、放送局、大学、学会といったゲートキーパーたちだ。もちろん、彼らにも権威主義に陥ったり、新しい斬新な考えを不当に排除したりといった問題はあった。それでも、「世の中に大量に流通する情報」には、最低限の事実確認というフィルターが存在していた。

しかし今は違う。世界的な科学雑誌の査読論文も、専門家の真摯な解説も、素人の匿名SNS投稿も、AIが数秒ででっち上げた幻覚(ハルシネーション)の誤情報も、すべて同じスマートフォンの画面上に、まったく同じサイズとフォントでフラットに表示される。 画面越しに見ている限り、そのテキストの下にどれだけ巨大な「岩山」が積まれているかは見えない。私たちの目に見えるのは、ただ表面に突き刺さっている「旗」だけなのだ。

だから「科学的かどうかを判断する力」が一般教養になる

だからこそ、これからの時代に最も重要になるのは、「知識をたくさん暗記していること」ではない。目の前に流れてきた情報に対して、次のような問いを投げかけられる力だ。

  • 「その情報は、一体どこから来たのか?」
  • 「何を根拠にしてそう主張しているのか?」
  • 「提示された証拠は、本当にその主張を裏付けるものか?」
  • 「その説は反証可能か? 別の誰かが再現しているか?」
  • 「それはたった一つの研究結果か? それとも研究の蓄積か?」
  • 「都合の悪い『反対結果』はどう扱われているか?」
  • 「『まだ分からない部分』と『単に根拠がない部分』を意図的に混同していないか?」

誤解してはいけないが、誰もが学者や研究者になる必要はない。自分で睡眠の臨床実験をしたり、量子力学の数式を解いたりする必要もない。ただ、「目の前に立っている旗の下に、どれだけの岩が積まれているのかを想像し、透かし見る力」が必要なのだ。

情報が少なかった時代は、社会の側がある程度の選別を肩代わりしてくれていた。しかし、玉石混交の情報が無限に濁流のように押し寄せる現代においては、受け手である私たち自身がフィルターにならざるを得ない。だから今、「科学的に考える」という能力は、理科の授業の中だけに留めておくべきものではない。SNSのタイムラインを眺めるとき、親戚から送られてきた健康情報を読むとき、AIの回答を読むとき、そして日々のニュースを見るとき、息をするように求められる必須スキルなのだ。

そして、その中でも一番大事なのは、「『分からない』という状態を、『(分からないのだから)何でもありだ』にすり替えないこと」なのだと思う。

確かに、科学はまだ世界のすべてを100%解明したわけではない。「分からないこと」は無数にある。だからといって、すべての思いつきやオカルト説が、科学的知見と同じ高さに並ぶわけではないのだ。

険しい岩山を登りつめた、その山頂の「一歩先」にある未知。 平らな地面にポンと立てただけの、一本の旗が示す未知。

これらは、言葉上は同じ「未知」であっても、その意味合いも価値もまったく異なる。その違いを嗅ぎ分け、ノイズに惑わされずに本質を見極めること。誰もが情報の発信者であり受信者であるこのAI時代において、それ自体が最も新しく、最も重要な「教養」になっていくのだろう。

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