社会は何にお金を払っているのか――オリンピアンとOnlyFansから考えた「社会の報酬表」

少し前、「男性のオリンピック金メダリストがOnlyFansをやっているらしい」という話をネットで見かけた。

最初に抱いたのは、ごく素朴な驚きだった。「オリンピックに出るほどのトップアスリートが、そこまでやるのか」と。 気になって調べてみると、話題の中心となっていたメキシコの重量挙げ選手ホルヘ・アダン・カルデナス(Jorge Adán Cárdenas Estrada)は、確かに東京オリンピック出場選手ではあったものの、金メダリストではなかった。しかし面白いことに、他の男性五輪金メダリストの中には、実際にOnlyFansを利用している選手が複数存在していたのだ。 つまり、最初に見かけた噂は人物の特定においてこそ間違っていたが、現象そのものは実在していたのである。ここから、私の興味はがぜん掻き立てられることになった。

「オリンピアンなのに」なのか、「オリンピアンだから」なのか

一口に「OnlyFansを利用しているアスリート」と言っても、全員が成人向けコンテンツを配信しているわけではない。トレーニングの様子や水着写真など、比較的SFW(職場閲覧可能)な使い方をしている選手もいる。

その中でホルヘ氏のケースが印象的だったのは、単なる筋肉写真やトレーニング動画にとどまらず、かなり踏み込んだ成人向けコンテンツまでを「本人名義」で商品化している点だった。しかも、アスリートとしての人格と、成人向けクリエイターとしての人格を完全に切り離しているわけでもない。オリンピック選手としての輝かしい経歴、極限まで鍛え抜かれた肉体、本人の顔、そして成人向けコンテンツ。それらがすべて一つのブランドとして同列に並んでいるのだ。

最初は「オリンピック選手なのにOnlyFansをやるなんて」と感じた。 しかし考えていくうちに、それは逆なのではないかと思い始めた。「オリンピック選手だからこそ、OnlyFansで高い価値が生まれる」のではないか、と。

彼は、ただ筋肉質なだけの一般男性ではない。何年も過酷なトレーニングを積み重ね、世界最高峰の舞台に到達するまで鍛え上げられた本物の肉体がある。そこに「オリンピアン」という極めて希少な肩書きが乗る。さらに、容姿や性的魅力、本人確認が取れているという安心感、そして「あの選手がそこまで見せるのか」というギャップや意外性までが加わる。 つまり、純粋な競技能力だけでなく、複数の属性が掛け合わされることで、彼には特異な価格がつけられているのだ。

最近では、OnlyFans自身が一部の五輪選手をスポンサーする動きまで出てきているという。「オリンピック選手なのに」と眉をひそめる時代から、「オリンピック選手だから」稼げる時代へと、価値観はすでに移り変わりつつあるのかもしれない。

そもそも、何が悪いのだろう

このあたりで、私自身の倫理的な判断も少し変化し始めた。 当初は、「オリンピック選手がアダルト男優のようなことまでしていいのだろうか」という漠然とした違和感があった。しかし、よくよく考えてみると、成人している本人が自分の意思で、自分の身体を、それを「見たい」と望む成人に向けて有料で提供しているだけである。そう捉え直すと、急に何が悪いのか分からなくなった。

本人が成人で、購入者も成人。内容も価格も明示されており、欲しい人だけがお金を払う。それならば、いったい誰が被害者なのだろうか。 もちろん、画像や動画の無断転載リスクや、引退後のキャリアへの悪影響など、懸念すべき点は多々ある。しかし、それはあくまで本人が引き受けるべき自己責任のリスクであって、成人向けコンテンツを販売する行為そのものが、直ちに「社会悪」となるわけではない。 ここで私は、「社会的に奇妙に見えること」と「社会悪であること」は、まったくの別物なのだと気づいた。

さらに言えば、アダルト男優という職業は昔から存在しているし、一般人が匿名アカウントで自分の性的な写真や動画を販売することも、現代ではさして珍しい現象ではない。 では、なぜそこに「オリンピアン」という肩書きが付いた瞬間に、私たちはこれほど驚いてしまうのか。もしかすると世間の側(あるいは私の側)に、「アスリートたるもの清廉潔白で、禁欲的で、ただ競技にのみ打ち込む存在であってほしい」という、身勝手な理想像が押し付けられているだけなのかもしれない。

スポーツだって、昔から身体を売ってきた

そう考えると、「アスリートが身体を商品化するなんて」と批判すること自体が、少し滑稽に思えてきた。 そもそもスポーツ産業というものは、昔から選手の身体を「商品」として消費してきたではないか。研ぎ澄まされた肉体美、フィットするユニフォーム、ポスター、テレビCM、スター選手の端正な容姿。

たとえば2011年頃、バドミントンの国際競技連盟(BWF)が、女子選手に対してスカートやワンピースの着用を義務付ける規則を導入しようとし、大きな反発を招いた出来事があった。その根底には明らかに、女子競技をより魅力的に見せ、マーケティング的な価値を高めたいという思惑があった。 つまり、アスリートの身体に「競技能力以外の商業価値」があることなど、競技団体の側はずっと昔から熟知していたのである。

だとすれば、OnlyFansの台頭によって始まったのは、「身体の商品化」そのものではない。大きく変わったのは、その身体から生み出される収益を、中間搾取を経ずに「本人が直接回収できるようになった」という点なのだ。

世界11位になるより、世界中から1000円ずつ集める方が強い

ここから先は、道徳の問題ではなく市場経済の話になる。 オリンピックに出場するほどの重量挙げ選手になるには、十年以上にも及ぶ血のにじむようなトレーニング、厳格な食事管理、常に付きまとる怪我のリスク、そして多くの生活上の制約を受け入れる必要がある。 しかし、それほどの犠牲を払って「世界11位」になったとしても、五輪のメダルはおろか、十分な報酬が得られるとは限らない。

一方で、その同じ身体を別の市場(OnlyFans)へ持っていき、世界中のファンが直接課金できるシステムに乗せると、価格の付き方が根本から変わってしまう。 単純な算数をしてみよう。もし、世界中から1万人が月額1000円を払ってくれたら、それだけで月収は1000万円になる。 (もちろん、ホルヘ氏が実際に何人の有料会員を抱え、いくら稼いでいるかは確認できていないし、推測で語るべきではない。これはあくまで、個人課金市場の構造を理解するためのモデルケースだ)

ただ、この単純な計算だけでも見えてくる現実がある。 それは、「社会は必ずしも、費やした努力の量に対して報酬を支払っているわけではない」ということだ。 市場が値段を付ける基準は、どこまでいっても「需要」「希少性」「注目度」、そして「課金のしやすさ」である。

何キロのバーベルを持ち上げられるかではなく、「この身体を見たい」と思う人が何人いるかで価格が決まる市場が存在する。極端な話、まったく同じ重量挙げの能力を持つ選手が二人いたとして、一方に端正な容姿やSNSの運用能力、あるいは性的魅力があれば、競技成績とは直接関係のない属性によって、得られる収入に雲泥の差が生まれる可能性がある。 性器のサイズなど、バーベルを挙げる能力とは微塵も関係がない。それでも、一度別の市場へと接続された瞬間、それすらも強力な値札の一部になり得るのだ。 なんとも不思議で、シビアな「社会の報酬表」である。

競技で回収できなかった価値を、別市場で回収する

だが、だからといって彼らを「楽して稼いでいる人」と見なすのも違う気がする。 彼らがOnlyFansで高い価値を生み出しているその肉体は、どこからともなく突然降って湧いたものではない。競技に向き合い、何年もの歳月をかけてストイックに鍛え抜いた結果として作られたものだ。

競技市場において、その身体は「何キロ挙げられるか」という基準で評価される。一方、成人向け市場においては「お金を払ってでも見たいか」という基準で評価される。同じ一つの身体を、異なる市場が、異なる指標で買い取っているに過ぎない。

むしろこれは、「スポーツ市場では本人に十分還元されきれなかった価値を、本人が自ら別市場へ持ち出すことで回収している」と言えるのではないだろうか。事実、ニュージーランドのボート選手であるロビー・マンソンのように、「OnlyFansでの収入が、競技生活を続けるための経済的な支えになっている」と公言するアスリートもいる。 OnlyFansは必ずしも「競技をドロップアウトして成人産業へ移るための場所」ではなく、逆に「競技を続けるための生命線」にもなり得るのだ。

では、中間組織はいらないのか

ここまで考えると、次のような疑問が湧いてくる。 「選手本人が自分の価値を直接ファンに売れる時代なら、競技団体のような中間組織はもう要らないのではないか?」

実際、バドミントンの渡辺勇大選手のように、代表活動に伴うスポンサーやウェアなどの様々な制約から距離を置き、個人スポンサーやイベント、講演などを通じて「渡辺勇大」という個人のブランドを直接販売していく道を選ぶトップアスリートも出てきている。圧倒的な実力と知名度を持つスター選手にとっては、それが最も合理的だろう。

しかし、ここでまた私の考えは少し揺れ動いた。 トップスターはそれでいい。では、2番手、3番手の選手たちはどうなるのだろうか。 スター選手ほどの知名度がない。SNSでの発信も得意ではない。容姿やキャラクターが一般ウケするタイプでもない。しかし、確かな競技力を持っている。そうした選手たちまで完全に個人主義の市場へ放り出してしまえば、最終的に待っているのは「スポンサーを集められなかったあなたの自己責任です」という冷酷な結末である。

競技団体や実業団といった中間組織には、スター選手が生み出した莫大な利益の一部をプールし、若手の育成、控え選手やコーチの雇用、遠征費、強化事業などへ再配分する「富の分配機能」がある。 つまり、スター選手の自由と利益を最大化することと、競技者全体の世界を守ることは、必ずしもイコールではないのだ。「トップ選手ファースト」と「競技者ファースト」は違う。

中間組織を排除すれば、たしかに「中抜き」は減るだろう。しかし同時に、弱者への「再分配」も消滅してしまう。市場価値は低くとも、そのスポーツの裾野を支えるために必要な人々を、どうやって養っていくのか。 気がつけば、OnlyFansの話題からは遠く離れ、社会全体の制度設計の話に行き着いていた。

そして、一番強いのは「料金所」を持つ人だった

さらに思考を進めていくと、もっと身も蓋もない真実に突き当たった。

選手は、来る日も来る日も身体を鍛え上げる。自ら撮影を行い、顔と名前を全世界に晒し、無断転載や社会的批判といったリスクを一人で背負い込みながら、ファンを集める。そして、ファンはお金を払う。 その一連の取引の間で、OnlyFansというプラットフォームは、取引の一定割合を手数料として淡々と徴収していく。

そこで確信した。結局のところ、この生態系で一番強いのは、自ら身体を売る表現者でもなければ、それにお金を払うファンでもない。見せたい人と見たい人の間にある「料金所」を所有している者なのだ。

競技者よりも、大会を運営し放映権を握る側。 クリエイターよりも、プラットフォームを提供する側。 労働者よりも、市場への入り口(インフラ)を所有する側。

思わず「OnlyFansに就職すればよかった」と冗談を言いたくなったが、深く考えていくうちにこう思い直した。就職すればよかったのではない。OnlyFansのような仕組みを「作れば」よかったのだ、と。

結局、これは性の話ではなかった

この一連の考察の出発点は、「オリンピアンがOnlyFansで成人向け動画を売るなんて、倫理的にどうなのだろうか」という、いささか野次馬的な疑問だった。

しかし、思考を巡らせるうちに、私の中の問いはすっかり変質していた。 成人している本人が、透明性の高い条件のもと、自分の身体を見たいと望む大人に向けて販売していること。それ自体は、もはやそれほど重大な問題だとは思えなくなっていた。 私が本当に気になったのは、「この社会は、人間のいったい何に対して、いくらの値札を付けているのか」ということだった。

十数年の歳月をかけて世界トップクラスの競技能力を身につけても、それだけでは大きなお金にならない現実がある。しかし、その過程で鍛え上げられた肉体を「性的な市場」へと接続した途端、競技とは無縁だったはずの要素までが価格として評価される。 スター選手が個人で稼げるようになれば個人の自由は増すが、その陰で2番手・3番手への富の再分配は弱体化していく。 そして最終的に、汗を流して価値を生み出す本人以上に、その取引のインフラを所有するプラットフォームが最も大きな利益を手にする。

つまり、最初は単なる「性の商品化」の話だと思っていたものは、最後には「誰が価値を作り、誰がその価値を所有し、誰がいちばん大きな取り分を受け取るのか」という、資本主義の根源的な仕組みの話へと姿を変えていたのだ。

社会は「努力した人が報われる」という、道徳の教科書のような単純な仕組みでは動いていない。現実の社会において強く報われるのは、「需要を直接つかみ」「希少性を持ち」「課金の経路(料金所)を握った」人間である。 そして私たち人間は、そのシビアな「報酬表」を無意識のうちに眺めながら、自分は何を目指すべきか、どこに限られた時間を投じるべきか、どんな能力を伸ばしていくべきかを学習していく。

そう考えると、オリンピアンのOnlyFans参入は、決して奇妙なゴシップや珍ニュースなどではない。 むしろ、「この社会は、いったい何に対してお金を払っているのか」という身も蓋もない現実を、これ以上ないほど分かりやすい形で見せてくれた象徴的な出来事だったのだと思う。

そして、私の思考は最後に新たな疑問へと向かっている。 肉体やエンターテインメントの世界ではなく、「知識」や「真実」の世界において、この社会はいったい何に報酬を払っているのだろうか。

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