雑栗わかる氏と絶対に覚醒させるマンあきさんの動画では、社会の常識や周囲の空気に従わず、自分の知恵と自信を取り戻すことが大切だと語られていた。
納得できないことには「ノー」と言う。
お金は苦労して稼ぐものだという思い込みを外す。
社会のレールから少し外れて、自分の心が望む方向へ進む。
言っていることの一部は分かる。
職場の不合理な要求に、何でも従う必要はない。周囲と違う道を選んでもよい。自分の人生なのだから、自分の意思を大切にすることは必要だと思う。
でも、この思想が本当に新しい社会の原理なのかどうかは、同じ理屈を発信者自身に向けたときに分かる気がする。
たとえば、私があきさんの三万円の霊視鑑定を受けたとする。
鑑定が終わったあと、私はこう言う。
「今日のお話には、あまり納得できませんでした。私の魂と相談したところ、適正価格は五千円だと感じました。九割社会のお金の常識に縛られず、自分の直感を信じ、五千円だけ支払います」
もちろん、思考実験である。実行するつもりは全くない。
事前に三万円と合意したなら、三万円を払うべきだ。
おそらくあきさんも、「契約どおりお支払いください」と言うだろう。
それはまったく正しい。
しかし、そこで少し面白いことが起きる。
私が職場や社会の要求に従わないときには、「自分の心を信じた覚醒」と説明できる。
ところが、私が鑑定者との約束に従わないときには、「無責任な契約違反」になる。
自分が義務を課される場面では、九割社会の規則を「支配」「洗脳」「ブロック」と呼ぶ。
自分の権利が侵害される場面では、契約、所有権、決済制度、裁判所という九割社会の規則へ戻る。
義務を負うときは一割社会の理屈で。
権利を請求するときは九割社会の理屈で。
もちろん、人は社会制度を利用しながら、その制度を批判してもよい。私だって行政の制度を利用しながら、行政の問題点について考えている。
問題は、どの規則を残し、どの規則を変えるのかを説明しないまま、自分に不都合な義務だけを「支配」と呼ぶことである。
契約という仕組みは、人間を縛る。
しかし同時に、力の強い人が、その日の気分で約束を破ることから、弱い側を守ってもいる。
社会の規則には、人を抑圧する面と、人を保護する面がある。
その両方を見ず、「私を縛る規則は悪い。私を守る規則は必要だ」と使い分けるなら、それは代替社会の原理ではない。
自分だけに認められた例外規定である。
本当に一割の新しい原理を提案するなら、他人がその原理を自分に向けたときにも、受け入れられなければならない。
相談者がお金への執着を手放し、鑑定料を払わなくても、宇宙が別の場所から必要額を運んでくれると信じられるのだろうか。

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