AIはまだ将棋すら読み切れておらず、雑草すらゼロからは創れない

――メヒシバと将棋AIから考えたこと

昨日、YouTubeで「人間 vs 将棋AI」のショート動画を見た。

人間がAIに最後に勝利した対局――2015年の電王戦を振り返る内容だった。そこからふと、将棋AIと人間の思考の違いについて考えさせられた。

今や、人間が将棋AIに勝つことはほぼ不可能に近い。AIは人間とは比較にならないほど、膨大な局面を瞬時に計算できるからだ。それでも、将棋というゲームは、AIでさえ最後まで完全に読み切れるほど単純なものではない。取った駒を自分の駒として好きなタイミングで打てるうえに、王手がかかれば、それまで組み立てていた攻めの筋をいったん脇に置き、全く新しい分岐を考え直さなければならない。盤面もルールも完全に決まっている「閉じた世界」でありながら、その組み合わせは途方もなく広大だ。

そこで面白いと感じたのは、人間の強い棋士は、AIほど膨大な手数を読んでいるわけではないという事実だ。AIが森全体を強力なサーチライトで照らし出し、しらみつぶしに道を探っていく存在だとすれば、人間は小さな懐中電灯しか持っていない。それなのに、「こっちは見なくていい」「たぶん、この道だ」と無数の枝葉を直感的に切り捨てながら、なぜか正しい道へと進んでいく。藤井聡太のような天才は、その「なぜか」の精度が桁外れに優れているのだろう。

そして今日。ベランダのプランターを眺めていたら、手入れをしている植物の隙間から、ひょろりとメヒシバが生えているのを見つけた。

最近はメヒシバだけではない。ツユクサらしきものやハコベラらしきものまで、頼んでもいない野草たちが風に乗ってやってきては、ちゃっかりと根を下ろしている。 「また雑草か」と抜きかけて、ふと、昔どこかで「メヒシバは健康にいい」という話を読んだことを思い出した。そこから連想は広がり、東城百合子さんの『自然療法』に行き着いた。

玄米、野菜、野草、梅干し、ビワの葉、こんにゃく湿布。現代医学の目から見れば、科学的に確かな部分もあれば、メカニズムがよく分からない部分もあるだろう。「メヒシバは腎臓にいい」と言われても、本当にメヒシバの成分単体が腎臓にダイレクトに作用したのかを証明するのは難しい。

そもそも、パッケージの裏の成分表示を気にかけることもなく、酒を飲み、甘い飲料や化学調味料たっぷりのジャンクフードを放り込んでいた人が、それらをきっぱりやめてメヒシバ茶を飲み、無添加の玄米や野菜中心の生活を始めたら、健康状態が改善するのはある意味で当然だ。

そのとき、果たして「メヒシバが効いた」のか、「酒をやめたのが効いた」のか、「食生活全体が変わったのが効いた」のか。あるいは「健康を意識して生活を整えたこと」自体が効いたのか。現実の生活では、それらがすべて同時に起きてしまう。

そこで、昨日の将棋AIの話が頭をよぎったのだ。

人体というシステムの複雑さは、言うまでもなく将棋盤の比ではない。トマトを一個食べるだけでも、「リコピン」という単一の物質を身体へ投入するわけではない。リコピン以外にも何百、何千という成分が含まれており、それを取り入れる人体の側にも、遺伝的な違い、年齢、腸内細菌叢、肝臓や腎臓のコンディション、その日の睡眠時間や他に食べたものなど、無数の変数が存在する。しかも、それらは常に互いに影響し合っている。

将棋なら、少なくとも飛車の動き方は永遠に変わらない。しかし人体は、まだ発見されていない未知の駒が無数に盤上に存在し、複雑に作用し合っているようなものだ。

そう考えると、西洋医学が一つ一つ条件を切り分け、「この物質はどう作用するのか」「この群とあの群を比較するとどうなるか」とストイックに検証していくのは、極めて真っ当なアプローチだと思う。科学とは、巨大で暗い探索空間を少しずつ照らし出し、確実な地図を一枚一枚作っていく地道な作業なのだ。

一方で、昔からの自然療法や民間療法は、それとはまったく別の探索方法をとっている。「理由は全部説明できないけれど、この辺りのものを食べ、こういうふうに暮らしていると、どうも調子がいい」という、長い時間をかけた経験則だ。

東城百合子さんを藤井聡太にたとえるのは少し大げさかもしれない。けれど、「すべての分岐を解析したわけではないのに、経験と直観から、一番筋のよさそうな候補手をひょいっと見つけ出す」という意味では、人間の棋士の思考プロセスにどこか似ている気がする。

もちろん、その直観や経験則がいつでも正しいとは限らない。たまたま結果が伴っただけかもしれないし、中には危険を伴う民間療法もある。

だからこそ、すでに確実な地図が描かれている領域では科学の恩恵に与る。病気になれば必要な検査や治療をきちんと受ける。一方で、科学がまだ十分に地図を描ききれていない領域――日々の生活や体調管理においては、昔からの経験や生活の知恵も頭から馬鹿にせず、取り入れてみる。

玄米を食べる。ベランダの野草について調べてみる。安全そうなら、少しお茶にしてみる。季節のものを食べ、酒や加工食品を摂りすぎず、よく眠る。それくらいの構えなら、なにも西洋医学と敵対する必要はない。

自然療法が製薬会社の利権にとって都合が悪いから隠蔽されている、といった巨大な陰謀論を持ち出さなくても、もっとシンプルに考えればいいのだ。世界は、ただ途方もなく複雑なのだと。

将棋という小さな9×9の盤の上でさえ、人間もAIもいまだすべてを読み切ることはできない。ましてや人体と自然の絡み合う世界など、分からないことだらけで当たり前なのだ。

科学は、その広大で暗い森の中に、少しずつ正確な地図を作ってくれている。一方の人間は、地図がなかった時代から「この草はこう使う」「こういうものを食べて暮らすと調子がいい」という小さな知恵を、身体の感覚を頼りに積み重ねてきた。

地図があるところでは地図を広げ、地図のないところでは、昔から森を歩いてきた人の経験談にも耳を傾けてみる。それくらいのしなやかな距離感で、科学の正確さと経験知の豊かさを両方無理なく取り入れながら、元気に長く暮らしていけたらいいなと思う。

そんなことを考えるきっかけになったメヒシバは、今日もベランダのプランターの隅で、人間のそんな理屈など知る由もなく、ただ風に吹かれて勝手に生えている。

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