フロントエンドの自由は、バックエンドの規律に支えられている

雑栗わかる氏のいう「個神がゆるくつながる」「丸い社会」という言葉は、聞いた感じはとても心地よい。

上下関係に縛られず、参加したいときに参加する。疲れたら離れる。お互いの個性を尊重し、無理に一つにならない。

友人関係や趣味の集まりなら、確かにそれくらいがちょうどいいと思う。

でも、これを「新しい社会の形」として考えると、どうしても気になることがある。

社会には、ゆるくできない部分がたくさんある。

救急車は、担当者が「今日は気分が乗らないので休みます」と言うわけにはいかない。水道も、「今月はつながりを弱めたいので、供給を少し止めます」とはならない。

銀行員が直感に従って口座残高を書き換えたら困るし、裁判官がその日の波動で判決を決めても困る。

私たちは、利用者としては自由でいたい。

好きな時間に動画を見たい。好きな店で買い物をしたい。気が合わない人とは距離を置きたい。

しかし、その自由を支える電気、通信、物流、金融、警察、消防には、決して気分で動いてほしくない。

つまり、自分たちのつながりはゆるくしたいけれど、自分たちを支える仕組みには、一秒もゆるんでほしくないのである。

たとえば、ある霊能者が個室で一対一の霊視鑑定をできるのも、二人の間にある信頼だけのおかげではない。

相談者が暴力を振るえば警察を呼べる。料金を踏み倒せば請求できる。建物には建築基準があり、火災が起きれば消防が来る。鑑定料は、銀行や決済サービスを通じて移動する。

鑑定者と相談者は「ゆるく」つながっていても、鑑定者は国家、法律、金融機関、警察とは、かなり強固につながっている。

スマートフォンの画面に並ぶアプリも、見た目は軽くて自由だ。

指一本で動画を見たり、商品を買ったり、人と話したりできる。

でも、その裏側には、通信規格、サーバー管理、決済記録、個人情報保護、保守点検という、驚くほど堅くて面倒な世界がある。

フロントエンドの自由は、バックエンドの規律に支えられている。

「個神がゆるくつながる社会」は、社会全体の代替案というより、強固な社会基盤の上に作られた、利用者側の快適な画面なのかもしれない。

画面だけを見て、「これからは全部ゆるくていい」と言ってしまうと、裏側でコードを書き、障害に備え、夜中に復旧作業をしている人が消えてしまう。

ゆるいつながりが悪いのではない。

自分のゆるさを可能にするために、誰かがゆるくない責任を引き受けている。

そのことを忘れないゆるさなら、社会の余白として、とても豊かなものになると思う。

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