第6回 「お金のない世界」は、本当に信頼社会なのか――自給自足という幻想
前回、私は「お金は単なる悪ではなく、見知らぬ他者と協力するための信用技術でもある」と書いた。
貨幣は、人間を冷たくする。
貨幣は、あらゆるものを商品に変える。
貨幣は、自然や労働や時間や人間関係まで、価格の中に閉じ込める。
それは確かにある。
しかし同時に、貨幣は、顔も知らない人同士の広域的な協力を可能にしている。
米を作った人、水道管を直した人、薬を作った人、道路を維持した人、下水を処理した人。
その人たちと直接信頼関係を結ばなくても、私たちは社会の中で協力し合えている。
だから、お金を消せば、人間本来の信頼が戻る、とは簡単には言えない。
むしろ、貨幣が担っていた抽象的な信用機能が壊れたとき、食料、土地、水源、武力、血縁、共同体内序列が新しい通貨として前面に出てくる可能性がある。
今回は、その先を考えたい。
雑栗わかる氏の「お金のない世界」思考実験で、特に気になるのは、自給自足的な暮らしへの解像度の低さである。
お金がなくなる。
都市は混乱する。
人々は地方へ移る。
自然の近くで暮らす。
食べ物を作る。
分け合う。
必要な作業をした後は、好きなことをする。
地域全体で子どもを育てる。
人間、自然、動植物、地球全体が循環する。
この描写は、美しい。
しかし、本当にそんなに簡単だろうか。
自給自足とは、言葉としては素朴で温かい。
けれど、実際にはとても厳しい営みである。
食べ物は、土に種をまけば勝手に安定して実るわけではない。
水は、ただ自然に流れているだけではない。
家は、ただそこに建っているだけではない。
道具は、ただ手元にあるだけではない。
病気や怪我や災害は、自然暮らしにした瞬間に消えるわけではない。
現代人が「自然に暮らしたい」と言えるのは、実は、背後に巨大な安全網があるからである。
都市で暮らしていれば、食料はスーパーにある。
水は蛇口から出る。
電気はスイッチを押せばつく。
ガスはコンロをひねれば使える。
体調が悪ければ病院へ行ける。
火事になれば消防が来る。
犯罪が起きれば警察が来る。
道路が壊れれば、誰かが直す。
大雨になれば、河川管理や排水施設や避難情報が機能する。
こうしたものは、あまりに当たり前すぎて見えなくなる。
しかし、その当たり前がなくなった途端に、「自然暮らし」は一気に過酷になる。
山で足を滑らせて骨折したら、どうするのか。
感染症になったら、どうするのか。
毒蛇に噛まれたら、どうするのか。
スズメバチに刺されたら、どうするのか。
熊やイノシシが出たら、どうするのか。
土砂崩れで家が流されたら、どうするのか。
洪水で畑が浸水したら、どうするのか。
自分たちで育てていた作物が不作だったら、どうするのか。
こうした問いに、「信頼」と「循環」だけでは答えられない。
現代の農業は、単に「自然と共に生きる」ものではない。
優良な種子がいる。
肥料がいる。
農薬がいる。
農機がいる。
燃料がいる。
灌漑設備がいる。
水利調整がいる。
気象情報がいる。
土壌改良がいる。
保存技術がいる。
物流がいる。
冷蔵設備がいる。
道路がいる。
研究機関がいる。
品種改良がいる。
金融がいる。
保険がいる。
修理と部品供給がいる。
これらの上に、現代の安定した食料供給は成り立っている。
収穫量の多い種子は、長年の品種改良と研究開発の成果である。
肥料は、天然ガスや鉱物資源、国際流通に依存している。
農機具は、金属加工、部品製造、燃料、整備技術、販売網がなければ維持できない。
害虫や病害への対応には、専門知識と資材がいる。
水利を維持するには、地域全体の合意形成と土木技術が必要になる。
収穫後の保存には、倉庫、乾燥、冷蔵、加工、流通が関わる。
自給自足は、土に触れれば自然に成立する詩ではない。
膨大な知識と労働と共同調整の上に成り立つ生活技術である。
もちろん、家庭菜園や小規模農的な暮らしには大きな価値がある。
自分で土を触り、種をまき、芽が出るのを待ち、収穫する経験は、人間の感覚を取り戻してくれる。
食べ物がどこから来るのかを身体で知ることは、現代人にとってとても大切である。
しかし、家庭菜園の喜びと、社会全体の食料供給を混同してはいけない。
ベランダで大葉を育てることと、都市人口を養うことは違う。
小さな畑でトマトを育てることと、何百万人分の主食を安定供給することは違う。
自分の食卓に少し野菜を添えることと、医療、介護、子育て、災害時の備蓄まで含めて地域全体を支えることは違う。
「自然に暮らす」は、個人の実感としては豊かである。
しかし、社会全体の設計としては、非常に多くの土地、労働、知識、調整、リスク管理を必要とする。
一人当たりに必要な土地も、都市生活よりはるかに広くなる。
現代人が都市で高密度に暮らせているのは、食料、水、電気、下水、物流、廃棄物処理、医療、行政を外部の巨大システムに預けているからである。
マンションの一室で生活できるのは、自分の生活に必要な田畑、水源、燃料、排泄物処理、廃棄物処理、食料保存、道路、警備、医療を、社会全体に分散して引き受けてもらっているからである。
だから、「みんなが自然に暮らせばいい」と言うなら、すぐに土地の問題が出てくる。
その土地はどこにあるのか。
誰が所有しているのか。
都市に住んでいた人々はどこへ移るのか。
既にそこで暮らしている人々との関係はどうなるのか。
水源は足りるのか。
山林や農地をどう分配するのか。
不作の年はどうするのか。
体力のない人、病気の人、高齢者、障害のある人、子どもはどう支えるのか。
自然回帰は、個人の生き方としては魅力的である。
しかし、社会全体で語るなら、土地、食料、水、医療、災害、治安、弱者保護の設計を避けられない。
さらに見落としてはならないのは、雑栗氏が描く「お金のない暮らし」が、実は近代社会の成果物を前提にしている点である。
人々は、すでにある家屋に住む。
すでにある道路を使う。
すでにある農地を使う。
すでにある道具を使う。
すでに蓄積された農業知識を使う。
すでに存在する種子や保存食を使う。
すでに整備された地域社会の記憶を使う。
すでにある地図や移動経路を使う。
すでにある衣服や靴や刃物や鍋を使う。
つまり、貨幣経済と近代科学、行政、インフラ、教育、医療、物流が長い時間をかけて蓄積してきた成果物を持ち込んだまま、貨幣だけを消している。
これは厳密な意味での「お金のない世界」ではない。
貨幣経済が作った上澄みの上で、貨幣経済だけを否定しているのである。
この構図は、街路樹の話にも似ている。
道沿いに美しく並ぶ街路樹を見て、
「植物のエネルギー」
「自然の癒やし」
「宇宙の循環」
と言うことはできる。
たしかに、木は美しい。
葉は光を受け、風に揺れ、人の心を和ませる。
植物が持つ力を感じることは、決しておかしなことではない。
しかし、その街路樹は、ただ自然にそこにあるわけではない。
道路管理者が計画し、予算を組む。
植木業者が苗を育てる。
適切な場所に植える。
根が歩道を持ち上げないよう管理する。
枝が道路標識や信号を隠さないよう剪定する。
落ち葉を片付ける。
害虫に対応する。
雑草を刈る。
台風で倒れないよう点検する。
住民からの苦情に対応する。
そうして初めて、都市の中の「自然」は、人間にとって心地よい風景として維持される。
人の手が入らなければ、雑草だらけになり、枝は伸び放題になり、落ち葉は側溝を詰まらせ、虫が増え、根上がりで歩道は凸凹になり、見通しが悪くなり、事故の危険も出てくる。
都市の自然は、自然そのものではない。
制度と労働によって維持された自然風景である。
それなのに、目に見える緑だけを見て、「自然は素晴らしい」と言い、その緑を維持している人間の手を見ないなら、それはあまりに都合がいい。
自給自足論にも、同じ構造がある。
自然の恵みを語る。
土の力を語る。
地球との循環を語る。
お金ではない信頼を語る。
しかし、その背後にある道路、水利、種子、農具、医療、衛生、治安、知識、土地制度、災害対応を見なければ、それは自然を語っているようで、実は近代社会の上澄みに乗っているだけである。
お金を否定する思想は、しばしばお金によって作られた世界の上で語られる。
冷暖房のある部屋で。
スマホを使って。
インターネットで発信し。
舗装道路を走り。
配送された食材を食べ。
医療制度に守られ。
警察と消防と行政が機能する社会の中で。
「お金のない世界」や「脱ピラミッド」を語る。
もちろん、現代文明を使って現代文明を批判してはいけない、ということではない。
それを言い出すと、あらゆる批判ができなくなる。
資本主義の中で生きながら資本主義を批判することはできる。
スマホを使いながらスマホ依存を批判することもできる。
行政サービスを受けながら行政の問題を批判することもできる。
問題は、前提を自覚しているかである。
自分が何に支えられて語っているのか。
自分が何を使いながら、それを批判しているのか。
自分が否定しているものが、同時に自分の生活を支えていることを見ているのか。
ここを見ない批判は、足元が抜ける。
高度に分業化された現代社会を急に停止させることは、高度一万メートルを飛ぶジャンボジェット機に向かって、
「エンジンを止めれば、自然に大地へ戻れる」
と言うようなものだ。
たしかに、飛行機は人工物である。
空を飛ぶことは、自然な状態ではない。
エンジンは燃料を使い、環境にも負荷をかける。
高度一万メートルで飛び続けることには、さまざまな問題がある。
しかし、だからといって、飛行中にエンジンを止めればよいわけではない。
エンジンを止めれば、飛行機は自然に大地へ優しく戻るのではない。
失速し、墜落する。
乗っている人は死ぬ。
本当に必要なのは、空中でエンジンを爆破することではない。
速度を落とす。
航路を見直す。
燃料の使い方を改める。
機体の状態を点検する。
着陸可能な場所を探す。
乗客を死なせない形で降りる。
次の移動手段を考える。
社会も同じである。
お金だけに支配された社会は、確かに危うい。
市場原理が生活のすべてを飲み込む社会は、確かに貧しい。
貨幣価値だけで人間や自然や時間を測る社会は、確かにおかしい。
しかし、だからといって貨幣を消せばよいわけではない。
貨幣を急に消すことは、現代社会のエンジンを空中で止めることに近い。
そこで起きるのは、自然で優しい着陸ではなく、供給網の崩壊、食料不足、医療停止、治安悪化、災害対応不能、弱者の切り捨てである可能性が高い。
本当に必要なのは、脱貨幣ではない。
貨幣の相対化である。
お金を神の座から降ろす。
しかし、お金が担っている信用技術としての働きは認める。
市場だけで社会を作らない。
しかし、市場を完全に消すのでもない。
行政、公共インフラ、福祉、医療、教育、共同体、贈与、ボランティア、家族、友人関係、自然環境を、それぞれの役割に応じて組み合わせ直す。
お金だけの世界は、確かに貧しい。
しかし、お金をなくせば愛と信頼に戻る、という世界観もまた、現実の複雑さを消している。
お金を消しても、社会問題は消えない。
むしろ、お金によって見えにくくなっていた権力、暴力、労働、排除、希少性の問題が、よりむき出しの形で現れるかもしれない。
だからこそ、問うべきなのは、
「お金のない世界は素晴らしいか」
ではない。
問うべきなのは、
お金に支配されすぎた社会を、どうすれば公共性、信頼、制度、共同体、自然循環のバランスの中に戻せるのか。
ここである。
脱貨幣ではなく、貨幣の相対化。
市場の否定ではなく、市場を公共性の中に位置づけ直すこと。
ワクワクや感謝だけでなく、インフラを支える労働、制度、専門性、面倒な調整への敬意を取り戻すこと。
そこからしか、現実に耐えうる社会思想は始まらない。
自然は尊い。
信頼も尊い。
助け合いも尊い。
お金に支配されない生き方も大切である。
しかし、自然も信頼も助け合いも、現実の土地、水、食料、医療、災害、労働、制度の上にしか成り立たない。
その足場を見ずに、美しい言葉だけで社会を語ることはできない。
「お金のない世界」は、本当に信頼社会なのか。
私は、そうは思わない。
少なくとも、お金を消せば自動的に信頼社会になるわけではない。
信頼社会を作るには、信頼だけでは足りない。
制度がいる。
公共性がいる。
責任がいる。
専門性がいる。
維持管理がいる。
そして、面倒で、地味で、嫌われる調整を引き受ける人がいる。
その人たちの存在を見ないまま語られる「信頼と循環」は、あまりに軽い。
お金を批判するなら、お金が支えてきたものまで見なければならない。
自然を語るなら、自然を維持している人間の手まで見なければならない。
信頼を語るなら、信頼だけでは支えられない遠い他者との協力まで考えなければならない。
そこまで見て初めて、「お金の先」を語る資格が生まれるのだと思う。

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