既婚者が未婚者を「まだ子どもであるかのように扱う」構図について書かれた記事を読んだ。
記事を読みながら、これは単なる既婚者のマウンティングではなく、「結婚して初めて一人前になる」という古い価値観が崩れ始めたときに起きる反応なのではないか、と思った。
既婚者が未婚者に対して、
「まだ子どもだね」
「結婚すれば分かるよ」
「家庭を持って初めて責任を知る」
みたいなことを言う。
これまで私は、こういう言葉を単純に、
「余計なお世話だな」
「既婚者が偉そうにしているな」
くらいに受け取っていた。
でも今回、家制度の歴史や出生率の推移まで寄り道しながら考えてみたら、少し違う構造が見えてきた。
これは未婚者が本当に未成熟だから説教されているのではない。
「結婚して初めて一人前」、つまり、既婚者だけが「一人前の大人」であり、未婚者はまだ未完成であるとみなす、既婚ムラの古い序列が崩れ始めたときに起きる反応なのではないか。
日本では戦後、法律上の家制度が廃止された。
それまでは、個人がまず一人の人間として存在するというより、「家」に所属し、その家を維持するために結婚し、子どもを産み、財産や役割を次の世代へ渡していく構造だった。
もちろん、家制度がなくなった昭和22年の憲法記念日を境に、人々の考え方まで一斉に切り替わるわけではない。
法律から「家制度」が消えたとしても、歴史、文化、生活の隅々にまで、その残響が残りつづける。
結婚して一人前。
家庭を持って責任を知る。
子どもを持って、ようやく本当の大人になる。
そういう成熟観は、戦後も長く生き続けた。
そして、しばらくの間は、その価値観と社会の現実がそれほど食い違っていなかったのだと思う。
結婚しなければ生活しにくい。
女性が一人で十分に稼ぐのは難しい。
病気、介護、老後を家族に頼る部分が大きい。
住居も食事も家事も、家族という単位で成り立っている。
だから法律上は「結婚しない自由」があっても、実際には、ほとんどの人が結婚という道を通った。
自由参加とは書いてあるけれど、参加しなければ生きにくい。
そのような状態だったのだろう。
ところが、その後、福祉、年金、介護、女性の就労、単身者向け住宅、家電、外食、インターネットなどが発達していった。
どれも「未婚者を自由にするため」に作られたわけではない。
けれど、それらを全部合わせた結果、
「家に所属しなくても、生きていける」
という状況が生まれた。
一人で住める。
食べられる。
働ける。
病気になれば医療を受けられる。
老後には年金や介護制度がある。
家族以外とも人間関係を作れる。
未婚者は、結婚へ向かう途中で止まっている人ではなく、そのまま別の生活を完成させられる人になった。
ここで初めて、既婚ムラの側が持っていた、
「こちらが完成形であり、そちらは未完成である」
という説明が成立しにくくなった。
既婚者が本当に盤石なら、未婚者を説教する必要はない。結婚しなければ必ず不幸になり、孤独になり、人生に行き詰まるのなら、放っておけば本人がそのうち気づく。
ところが実際には、未婚者がそれなりに暮らしている。
一人で好きなものを食べ、好きな時間に寝て、趣味や友人や恋人と過ごし、
「私はこの生活で結構です」
と言っている。
それを見たとき、結婚した側の一部には、少し困ったことが起きる。
結婚が「人間なら通る道」ではなく、「複数ある選択肢の一つ」になってしまうからだ。
自分が結婚するために払ったもの。
自由な時間。
お金。
家事の調整。
親族づきあい。
配偶者への配慮。
子育て。
住宅ローン。
感情のすり合わせ。
それらが、すべての大人に必要な通過儀礼ではなく、
「自分が選んだ一つの生活にかかった費用」
になってしまう。
だから生活様式の比較ではなく、人格の上下へ話を変える。
「結婚生活にはこういう長所があるよ」ではなく、「結婚していないあなたは幼い」と言う。これなら未婚者が「私は幸せです」と答えても、「幼いから、本当の幸せが分からないんだよ」と処理できる。
かなり無敵の理屈である。
でも今は、未婚側も黙って子ども扱いされなくなった。
「私は未成熟なのでしょうか」
と弁明するのではなく、
「なぜ、あなたに私を未成熟と認定する権利があるのですか」
と問い返す。
さらに、
「他人を子ども扱いしなければ、自分の人生を肯定できない、その態度のほうが醜くないですか」
と、評価する側を評価し返す。
以前は、「未婚者は、なぜ結婚しないのか」だけが問いだった。
今は、「既婚者は、なぜ未婚者に説教したがるのか」という問いが成立する。
これはかなり大きな変化だと思う。
既婚者が未婚者を審査すること自体が、当然ではなくなったのだ。
そして、この構造は結婚に限らない。
正社員が、正社員ではない人を「根性がない」と言う。
持ち家の人が、賃貸の人を「いつまでも落ち着かない」と言う。
子どもを持つ人が、持たない人を「自分中心だ」と言う。
出世した人が、出世を望まない人を「向上心がない」と言う。
もちろん、本当に具体的な問題がある場合は別だ。
仕事を無断で放置して、同僚に損害を与えた。
引き受けた養育責任を放棄した。
他人に明確な負担を押しつけた。
それなら、行為と被害を批判できる。
しかし、
正社員ではない。
結婚していない。
子どもがいない。
家を買っていない。
という属性や選択の結果でしかないものを、未熟、怠惰、無責任、非常識という人格評価に変換するなら、そこにはムラの掟が挟まっている。
「あなたは悪いことをした」
ではなく、
「あなたは、私たちと同じ道を通っていない」
と言っているだけなのかもしれない。
しかも非○○側は、そのムラに参加して掟を破ったわけではない。
結婚しておきながら夫婦の責任を放棄したのではなく、そもそも結婚していない。
出世競争で不正をしたのではなく、最初からその競争を人生の中心に置いていない。
それなのにムラ側は、勝手に全員を村民登録し、
「なぜ村の義務を果たさないのか」
と説教してくる。
それは掟破りへの制裁というより、ムラの外にいる人へ、ローカルルールを勝手に適用する越権行為なのだろう。
今回の考察で残った言葉は、これだった。
他者を未成熟と呼ぶ説教は、しばしば他者の未成熟を示すのではなく、説教者のムラの掟が通用しなくなったことを示している。
説教されると、つい、
「私は本当に未熟なのだろうか」
と、自分の中を点検してしまう。
でも、その前に考えてもよい。
その評価は、普遍的な倫理から導かれたものなのか。
それとも単に、
「私たちのムラでは、そういう人を大人と呼びません」
という話なのか。
そして、そのムラに私は入った覚えがあるのか。
「結婚して初めて一人前になる」。
そんな古い物差しは、法律上はもう存在しない。
文化の中に残っていたその物差しも、今ようやく、
「それは誰の基準ですか?」
と問われる時代になったのだと思う。

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