言葉がきれいすぎると感じる理由を考えているうちに、
そもそも「会話と対話って、何が違うんだっけ・・・」と、もう一段深いところに降りていった。
ふと思ったのは、人が話したくなるときって、
けっこう単純な理由なんじゃないかということだった。
不安だったり、不満だったり、納得いかないことだったり、
とにかく内側に溜まっているものを外に出したい。
誰かに聞いてほしいし、分かってほしいし、
できれば共感してほしい。
そこまで深く思考なんてしていない。
ただ外に出したいだけ。
それって、どこか排泄に似ているなと思った。
体の中に溜まったものを外に出すことで、楽になる。
言葉も同じで、出すことでスッキリする。
そう考えると、会話って基本的には「排出」なんじゃないかと思う。
話す側は出して楽になるし、聞く側も「うんうん」と受け取る。
でも、そのまま流れていくことも多い。
出しっぱなし、受け取りっぱなし。
それで回っている世界。
もちろん、それが悪いわけじゃない。
むしろ、そういう機能がないと人はしんどくなると思う。
ただ、それだけだと「変化」はあまり起きない。
そこで、対話は何が違うのかと考えたときに、
浮かんできたのが「発酵」というイメージだった。
誰かが吐き出したものを、そのまま返すんじゃなくて、
一度自分の中に入れて、少し寝かせて、形を変えてから返す。
すぐに答えを出すんじゃなくて、
いったん自分の中に置いておく。
そうすると、時間差で何かが変わる。
あるとき、急に「ああ、そういうことか」と腑に落ちる瞬間が来る。
考えたというより、つながった感じ。
その感覚は、論理的に組み立てた答えとは少し違う。
もう少し感覚に近いというか、
頭だけじゃなくて、体ごと納得しているような感じがする。
たぶん、考えることにも二つの層がある。
一つは、顕在意識で論理的に考えること。
もう一つは、ぼーっとしながら受け止めて、内部で熟成させること。
会話は前者で完結することが多くて、
対話は後者を通って戻ってくる。
そんな違いなのかもしれない。
このイメージをさらに考えていたときに、
ふと浮かんだのが「虹」だった。
会話が光だとすると、
自分の中にある違和感とか、ズレとか、傷ついてきた「経験」が水滴になる。
その水滴があるからこそ、光が屈折して、虹が見える。
何も経験していなければ、光はそのまま通り過ぎてしまう。
でも、水滴があると、
同じ光でも全然違う形で見えるようになる。
つまり、対話って「入力」じゃなくて、
内部で何かが変換されて起きる現象なんだと思う。
そして、その変換を起こすためには、
ある程度の“材料”が必要になる。
これまで感じてきたズレや違和感、
うまく処理できなかった感情、
そういうものが、自分の中に残っていること。
それが、水滴になる。
逆に言えば、そういうものを全部すぐに解消してしまったり、
なかったことにしてしまうと、何も起きない。
最近の言葉がどこか薄く感じるのは、
この「発酵」や「屈折」が起きる前に、
すぐに答えが出てしまうからなのかもしれない。
すぐ検索して、すぐ理解した気になって、
そのまま次に進んでしまう。
でも、それだと、自分の中で何も変わらない。
対話って、たぶん少し面倒で、
時間がかかって、効率が悪い。
でも、その分だけ、
ちゃんと自分の中で何かが変わるものなんだと思う。

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