その人が、そこに、居続けてくれている感じ

夜、ベランダのビオトープを見ながら、ふと、最近よく見かける不思議な配信のことを思い出した。

おじさんが、ボウルに張った水を、ただかき混ぜているだけのYouTubeLIVE。

ガラス玉のようなものが、水の中でカラカラと鳴る。
特にオチもない。
役に立つ情報があるわけでもない。
でも、そこには人が集まり、スパチャまで飛んでいる。

最初は、「なぜ?」と思った。

でも今日、なんとなく分かった気がした。

人は、情報だけを求めているわけではない。

「誰かがそこに居続けてくれている感じ」

を求めているのだ。

現代社会は、便利で、速くて、情報量が多い。
その代わり、「なんとなく居られる場所」がどんどん減っている。

昔なら、近所の喫茶店や、学校帰りの駄菓子屋や、意味もなく集まる公園や、顔だけ知っている商店街のおじさんがいた。

でも今は、ほとんどの空間が「成果」「効率」「正しさ」「市場価値」で測られる。

SNSを開けば、比較。
ニュースを見れば、不安。
動画を見れば、成功者。

人間の脳は、本来、半径数メートルの世界で生きるようにできているのに、毎日、世界中の才能や格差や炎上が流れ込んでくる。

すると、だんだん、「自分が何を好きなのか」が分からなくなる。

だから人は、「好きがまだ死んでいない場所」を探し始める。

雑栗わかるさんのような発信が、一部の人に強く支持される理由も、そこにある気がする。

理論の整合性だけなら、矛盾はいくらでもある。

「ピラミッド社会から降りよう」と言いながら、サロンの月額課金は存在する。
「好きなことだけして生きよう」と言いながら、エッセンシャルワークは誰かの労働に依存している。

でも、多くの人は、彼に、「完璧な理論」を求めているわけではない。

息苦しい世界の中で、

「なんか変じゃない?」
「そんなに競争しなくてもよくない?」
「もっとゆるく生きてもいいんじゃない?」

と、面白おかしく話してくれる人が、確かに、居る。

その「居続けてくれる感じ」に、救われているのだと思う。

そして面白いのは、「自分の好きなことをして生きよう」というテーマがよく語られるのだが、

どんな「好きなこと」でも、自分ひとりで完結するものって少なくて、実は、
そのほとんどが、「他者との関係性」を必要としている。

好きな絵を描くにも、見てくれる人が必要。
好きな歌うにも、聴いてくれる人が必要。
好きな料理を作るにも、食べてくれる人が必要。
好きなことを話すにも、受け止めてくれる人が必要。

つまり、「好き」とは、完全な孤独の中では成立しにくい。

オンクリマルシェのような場で、人々が一般市場では売れないようなものを出品するのも、単なる金儲けではなく、

「私の好きが、ここでは変だと言われずに置ける」という感覚そのものを求めているのかもしれない。

人は、理解されたいというより、まずは、「存在を、そこに置いていいと誰かに言ってほしい」のだろう。

だから現代の課金は、単なる商品購入ではなく、

「この空気が消えないでほしい」

という、居場所維持費に近くなっている。

もしかすると、思想や得られる情報そのものではなく、

「今日も、その人が、そこに、居続けてくれている」

という小さな灯りを、人は、より切実に求めているのかもしれない。

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