天才という現象と、自分の『今ここ』との距離

今日は、YouTubeでHIMARIさんの演奏を見た。

バイオリンだけじゃない。
語学も、立ち振る舞いも、
「天才」という言葉が自然に出てくるような子だった。

こういう人を見ると、痛快でもある。

人間って、ここまでできるんだ、という感じがするから。

でも同時に、
心のどこかで比較も始まる。

「こんな才能があって、有名になって、お金も集まって、人生イージーモードだよな」
みたいなことを考えてしまう。

でも、ふと思った。

比べさえしなければ、
人生って、いつも「今ここ」でしかないんだよな、と。

その現象との距離感の問題なんだよな、と。

今日、ベランダのビオトープを眺めていた。

メダカたちは、
餌を横取りされても、
「あいつに負けた…」みたいな顔をしない。

サッと次の餌へ向かう。

次の瞬間には、
カラスや大きな魚に食べられて死ぬかもしれないのに、
泳ぐのをやめない。

人間は、
比較できる能力が高すぎるのかもしれない。

しかも現代は、
スマホを開けば、
世界中のトップ層が流れてくる。

本来なら一生会わなかったレベルの天才と、
毎日比較してしまう。

それは苦しくもなる。

ただ、今日もう一つ思った。

比較そのものが悪いわけじゃないんだよね。

「理想の状態の自分」と「今の自分」の差分を埋める。

それ自体は、
生命そのものに近い。

植物だって光へ伸びるし、
魚だって速く泳ごうとする。

イーロン・マスクも、
大谷翔平も、
結局は「昨日の自分」を更新し続けているんだと思う。

でも現代の残酷さは、
「1位」があまりにも可視化されすぎることかもしれない。

例えば、
HIMARIさんのすぐ下には、
同じくらい努力して、
同じくらい人生をかけている
「2番手の天才」もいるはずだ。

3番手も、4番手も。

能力差は、実際にはそこまで大きくないかもしれない。

でも、
注目も、お金も、称賛も、
極端に1位へ集まりやすい。

自然界では、
一本の巨大樹だけが光を独占すると、
森全体が弱ることがある。

現代社会も、
少しそれに近いのかもしれない。

だから最近は、
世界ランキングを見るより、
自分の「プレイ画面」に戻る方が大事なんだろうなと思う。

他人と比べ続けると、
人生が「観戦」になってしまう。

でも、
外の風とか、
水面とか、
今の呼吸とか、
そういう「今ここ」に戻ると、

人生は、
また少しだけ、
自分の手触りを取り戻す。

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