意識がもがいた跡が、その人そのものである。

歪んでいるのに、調和している」ということについて、少しだけ考えてみたい。

本物の人間の身体や表情、あるいは本物の植物を見たときに感じるリアルさは、単に「きれい」だから生まれるものではない。

むしろ、本物はたいてい歪んでいる。

植物の茎は、光を求めて曲がる。
葉は、風や乾燥で傷む。
日陰側はスカスカになり、窓側だけ不自然なくらい伸びる。
でも、その歪みには理由がある。
その場所で、その光と水と風のなかで生きてきた結果として、そうなっている。

人間も同じだと思う。

腹が出る。
肩が丸まる。
目線をそらす。
笑ってごまかす。
強がる。
照れる。
隠す。
開き直る。

それらは、単なる形の乱れではない。
その身体で生きてきた履歴と、その人の意識が、外側ににじみ出たものだ。

肉体は自然である。
その肉体が置かれている外部環境も、また自然である。

重力、加齢、光、温度、湿度、他人の視線、社会の圧、恥、欲望、恐怖。
人間はその間に置かれている。

そこに、「私はこう見られたい」「こう見られたくない」「平気なふりをしたい」「傷ついていないことにしたい」という意識が入り込む。

だから、人間にはクセが生まれる。
歪みが生まれる。

けれど、その歪みは、完全な人工物ではない。
肉体から逃げられず、環境からも逃げられず、そのあいだで意識がもがいた結果として生まれる。

だから、歪んでいるのに、どこか調和している。

AIが作る歪みは、しばしば「デザインされた歪み」に見える。
でも、本物の人間の歪みは、デザインではない。

それは、肉体という自然と、環境という自然のあいだで、意識がもがいた跡なのだと思う。

本物の人間や植物を見たときに感じるリアルさは、単に「きれい」だから生まれるものではない。

むしろ、本物はたいてい歪んでいる。

けれど、その歪みは、ただの乱れではない。
その場所で、その身体で、その環境の中で、どうにか生きてきた跡である。

AIは「うれしい顔」を描ける。けれどそれは、うれしさが肉体を通って顔に現れた跡ではない。そこにあるのは、うれしいとされる表情の外形であって、うれしさそのものが漏れ出した表情ではない。

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