無償に頼らない勇気

「町会に入るメリットは?」
そんな問いを一蹴できる答えが無いのは、「町会の機能が多すぎる」からだろう。

「公共」は行政に返して税金で賄う。
「親睦」は任意。
そして「共益」は、活動に参加する。
参加しないなら、ちゃんと費用負担をする。

タダ乗りはさせない。
必要なのは、無償に頼らない勇気。

町内会を退会した人に、近所の人から「防犯灯の費用だけは払ってほしい」と言われた、というニュースを見た。

記事では、町内会は任意団体なので、退会した人に町内会費そのものを同じように求めるのは難しい一方、防犯灯のように会員でなくても利益を受ける共用設備については、町内会費とは分けて考える余地がある、と整理されていた。防犯灯は、町内会員だけでなく、非会員の住民も明るさや防犯効果を受けるからだ。

なるほど、と思った。

町会には入っていない。
行事にも出ない。
回覧板もいらない。
近所付き合いもしたくない。

そこまでは、現代ではかなり自然な感覚だと思う。

けれど、防犯灯の明かりは使う。
ごみは近所のごみステーションに出す。
誰かが掃除してくれている道を歩く。
カラスが散らかしたごみを、誰かが片付けてくれている。

そう考えると、町会や自治会の問題は、単純に「加入するか、しないか」では整理できない気がした。

ちょうど同じ頃、別のニュースも見た。

長野県内の自治会をめぐるニュースで、高齢化、役員のなり手不足、未加入者との不公平感、加入率の低下などが取り上げられていた。記事によれば、全国の自治会世帯加入率は2010年の78%から2021年には71.8%に下がり、長野県高森町では自治会加入率が6割ほどで、この15年で2割近く減少しているという。高森町の自治会では、防犯灯や水路の維持管理を区費でまかなっているとも紹介されていた。

さらに南箕輪村では、自治会の仕事を、ごみ収集の立ち合いや回覧板配布などの「行政協力業務」、募金集めなどの「他団体依頼業務」、公民館運営やイベントなどの「自治会運営業務」に分け、負担軽減のため、ごみ収集の立ち合いや広報誌配布を外部委託し、募金集めもやめたと紹介されていた。

これは、かなり重要な動きだと思った。

つまり、今まで一つの袋に詰め込まれていた自治会の仕事を、少しずつ分解し始めている。

町会や自治会には、いろいろな機能が詰め込まれている。

防犯。
防災。
清掃。
ごみステーションの管理。
市の広報。
回覧。
見守り。
お祭り。
親睦会。
募金。
子ども会。
敬老会。
地域要望の取りまとめ。

これらが、全部ひとまとめになっている。

だから、行政が町会加入を促すとき、どうしても持って回った言い方になる。

「町会は地域にとって大切です」
「清掃や防犯活動をしてくれています」
「災害時の助け合いにもなります」
「できれば加入をお願いします」

間違ってはいない。

けれど、それでは「町会ってメリットあるんですか?なんのために存在しているんですか?」という問いを一蹴できない。

なぜなら、加入しない人にも、かなり正当な言い分が残るからだ。

「防災や清掃が大事なのは分かります。でも親睦会には出ません」
「ごみステーションは使います。でも祭りや役員は無理です」
「市の広報なら、市が直接届ければよいのでは」
「町会に入ったら、余計な負担が増えそうです」

こう言われると、なかなか反論しづらい。

町会が大事ではないから、一蹴できないのではない。
町会が、大事な機能と、任意でよい機能を抱き合わせにしているから、一蹴できないのだと思う。

ここで、ひとつ整理ができる。

親睦は任意。共益は負担。公共は行政責任。

まず、公共機能。

これは本来、行政が責任を持つべき領域だ。

避難所の開設。
市の広報。
制度としての防災。
ごみ収集。
公共空間の維持。
要配慮者支援。

これらを、町会の善意や無償労働に頼りすぎるのは、やはり危うい。

「人件費が足りないから、町会にお願いするしかない」

そう言えば、一見現実的に聞こえる。

けれど、それは言い換えれば、必要な仕事を誰かの我慢で維持しているということでもある。

ボランティアという美しい言葉の裏で、地域住民の相互監視や断りにくさによって、実質的な無償労働が発生しているのではないか。

そう考えると、町会に感謝するだけでは足りない。
公共が町会に求めすぎている部分を、公共に戻す必要がある。

次に、親睦機能。

これは完全に任意でよいと思う。

祭り、親睦会、旅行、慶弔、趣味的な回覧、文化的な行事。

これらには価値がある。
地域文化として大切に思う人もいる。

長野放送の記事でも、夏祭りや文化祭のような行事が、地域のつながりや緊急時の対応につながるという自治会側の声が紹介されていた。

それは確かにそうだと思う。

祭りが好きな人はやればいい。
地域文化を守りたい人は守ればいい。
そこに関わることで居場所を得る人もいる。
それは大切なことだ。

けれど、参加しない人を「地域に非協力」と見なすのは、もう難しい。

価値があることと、参加しない人を責めてよいことは違う。

問題は、その間にある共益機能だ。

防犯灯。
ごみステーション。
地域清掃。
カラス対策のネット。
分別違反への対応。
ごみ置き場周辺の清潔保持。

これは親睦ではない。
でも、完全に行政だけで担うとも言い切れない。

なぜなら、そこには地域で共同利用している設備や場所があるからだ。

ごみステーションは分かりやすい。

非加入者であっても、ごみは出す。
近くのごみステーションを使う。
そして、その場所を誰かが掃除していることも、たぶん知っている。

ならば、こう言えるのではないか。

「町会に入るかどうかは自由です」
「親睦行事に出るかどうかも自由です」
「ただし、ごみステーションを使うなら、清掃当番に入るか、共益費を払うか、どちらかで支えてください」

これは、かなり断りづらい。

町会に入れ、と言っているわけではない。
祭りに来い、と言っているわけでもない。
回覧板を受け取れ、とも言っていない。

ただ、使っているものについては、労務か費用で支えてください、というだけだ。

ここで、お金の意味が出てくる。

お金には本来、不公平感を調整する機能がある。

時間を出せる人は、清掃当番をする。
時間を出せない人は、共益費を払う。
高齢、障害、育児、介護、病気などで難しい人には配慮する。
清掃を担う人には、報酬や減免を与える。

そうすれば、「やる人だけが損をする」構造を変えられる。

今の町会活動は、真面目な人ほど損をする構造になっている面がある。

加入している人が、役員、清掃、集金、回覧、防災、苦情対応を引き受ける。
加入しない人は、負担を避けつつ、地域の便益は受ける。

これでは、真面目な人から疲れていく。

だから必要なのは、町会の美徳を語ることではなく、共益の仕組みを設計し直すことだと思う。

ここで、「北風と太陽」の話を思い出した。

今の町会加入促進は、北風型に近い。

「町会には、こんなにたくさんの機能があります」
「防犯も、防災も、清掃も、行事も、見守りも、広報も・・・あります」
「だから入りましょう」

一見、メリットをたくさん示しているように見える。

でも、非加入者からすると、機能が増えれば増えるほど、むしろ服を固く着込む。

「そんなに色々あるなら、面倒そう」
「役員が回ってきそう」
「行事を手伝わされそう」
「人間関係が重そう」
「だったら入らないでおこう」

メリットを盛れば盛るほど、加入のハードルが上がっていく。

一方、太陽型は違う。

「町会に入るかどうかは自由です」
「親睦行事は任意です」
「ただし、ごみステーションを使うなら、清掃当番か共益費を選んでください」

これは、相手の自由を奪っていない。

むしろ、一番楽な選択肢として、共益費を払うことが用意されている。
あるいは、お金をもらって清掃当番をする選択肢もある。

これなら、人は自然に服を脱ぐ。
つまり、共益負担を受け入れやすくなる。

町会のメリットを増やすのではなく、町会を分解する。
公共、共益、親睦を切り分ける。
そして、拒否しにくい共益だけを、合理的に負担してもらう。

そのほうが、現代の住民には届く気がする。

ごみステーションを例にすれば、こう説明できる。

「市内には多くのごみステーションがあります。
それが自宅の近くにあるのは、町会や利用者が清掃・管理をしているからです。
もし、すべてを税金で行政が直接管理するなら、同じ密度を維持するには大きな費用がかかります。
費用を抑えようとすれば、ステーション数を減らすことになり、人によっては百メートル、二百メートル先までごみを運ぶことになるかもしれません。
近くにごみを出せる便利さは、地域の共益活動で支えられています。
だから、使う人は、清掃当番か共益費で支えてください」

これは、「町会に入るメリットは何ですか」という問いへの、かなり強い答えになる。

近くにごみを出せること。
毎週使っているその便利さ。
それは、誰かの清掃と管理で成り立っている。

そう言われると、非加入者も簡単には逃げられない。

もちろん、数字はきちんと出す必要がある。

現在、収集作業員が収集時にどこまで簡易清掃しているのか。
カラスが散らかしたごみを軽く集める程度なのか。
町会当番レベルの清掃まで行政が担うと、どれくらい時間が増えるのか。
一般廃棄物の許可業者に、収集に合わせたステーション清掃を委託した場合、どれくらい費用がかかるのか。

これは、清掃行政としても研究する価値があると思う。

ごみステーション管理は、清掃行政と自治会・町会の境界にある。
だから難しい。
自治推進、協働推進、清掃部門、財政、法務が絡む。

けれど、だからこそ意味がある。

町会加入率を上げることだけを目的にするのではなく、地域の共益機能がどれほどの価値を生んでいるのかを、時間とお金で見える化する。

そうすれば、町会長に「町会のメリットを一言で教えてください」と聞かれたとき、少し違う答えができる。

「町会は大切です。加入してください」

ではなく、

「親睦は任意です。
ただし、近くにごみを出せる便利さや、防犯灯の明かりは、地域の共益活動で支えられています。
使う人は、労務か費用で支えてください」

と言える。

これは、町会に入らない人を責める言葉ではない。
町会を守るためだけの言葉でもない。

むしろ、町会を、行政の無償下請けから解放する言葉だと思う。

長野県内の自治会のニュースで紹介されていた、行政協力業務の外部委託、募金集めの取りやめ、河川清掃への報奨金化、デジタル化の検討は、まさにその方向に見える。自治会に「もっと頑張れ」と言うのではなく、自治会が抱え込みすぎた荷物を降ろそうとしている。

そこで必要になるのは、無償に頼らない勇気なのだと思う。

助け合い。
善意。
ボランティア。

それで物事が済むなら、それは美しい。

けれど、社会の仕事は細かく増えた。
行政の役割も増えた。
地域に求められることも増えた。
人々の時間も、暮らしも、昔ほど余ってはいない。

それなのに、前例踏襲で「地域のことだから無償で」と言い続ければ、結局、断れない人や真面目な人に負担が寄っていく。

善意を否定する必要はない。
でも、善意を制度の前提にしてはいけない。

必要な仕事には、必要な対価を払う。
役務を提供する人には、きちんと報いる。
参加できない人は、金銭で支える。
参加したい人は、納得して関わる。

そういう仕組みに一歩踏み出すことが、これからの自治体にも、町会にも求められているのだと思う。

無償であることが、いつも美しいとは限らない。
ときには、お金を払うことのほうが、ずっと誠実な助け合いになる。

町会は、何でも屋になりすぎた。

公共機能も、共益機能も、親睦機能も、福祉も、文化も、全部ひとつの袋に詰め込まれてきた。

その結果、加入しない人は、袋ごと拒否する理由を持ってしまった。
そして、加入している人は、袋ごと背負わされて疲れていった。

だから、袋をほどく必要がある。

公共は行政責任。
共益は利用者負担。
親睦は完全任意。

この三つに分ければ、町会の話はずっと分かりやすくなる。

町会の未来は、「みんなで仲良くしましょう」と言うだけでは守れない。
ボランティアを前提にするだけでも、もう難しい。

必要なのは、善意を否定することではない。
善意がなくても回る仕組みを作ることだ。

そして、善意で動く人が損をしないようにすることだ。

町会に入るかどうか。
その問いだけでは、もう足りない。

これから問うべきなのは、

地域の公共と共益を、誰が、どのように、どれだけの負担で支えるのか。

そのことなのだと思う。

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