大坂なおみさんは、日本文化を雑に扱ったように見える一方で、彼女自身もまた「多様性のアイコン」として消費されている人なのかもしれない。
テニスが強いという事実の上に、社会が勝手に文化、差別、政治、ファッション、倫理を背負わせている。
人間が「本人」ではなく「記号」として扱われるとき、本人もまた、他の文化を記号として扱ってしまう危うさがある。
前回の日記では、大坂なおみ選手の白い和装風衣装について、かなり強く書いた。
白い和装は、日本文化の中では軽いファッション記号ではない。
白無垢、死装束、白装束、切腹、神事、葬送、覚悟を連想させる重い装いである。
それを「日本文化へのリスペクトと愛」として世界に提示するなら、その重さを引き受けてほしい。
その気持ちは、いまも変わらない。
ただ、少し時間を置いて考えると、もう一つ別の見方もあると思った。
大坂なおみさん自身もまた、かなり大変な立場に置かれている人なのではないか。
彼女は、まず何よりもテニス選手である。
テニスが圧倒的に上手い。
世界のトップで戦ってきた。
それは紛れもない事実である。
そして、両親の国籍やルーツが異なる。
日本にルーツがあり、ハイチにもルーツがあり、アメリカで育った。
黒人女性として差別を受けた経験もあるのだろう。
それも事実である。
しかし、事実は本来そこまでだ。
テニスが強い。
複数のルーツを持っている。
差別への怒りを表明したことがある。
それだけのことが、いつの間にか、巨大な物語へと変換されていく。
多様性の象徴。
日本と世界をつなぐ存在。
黒人女性の声。
若者のロールモデル。
ファッションアイコン。
反差別の旗手。
文化を背負う人物。
新しい時代のアスリート。
そうやって、社会は一人のテニス選手に、どんどん意味を乗せていく。
本人がどこまでそれを望んでいるのかは分からない。
もちろん、本人が自覚的に選び取ってきた発信もあるだろう。
けれど、それでもなお、周囲のメディア、スポンサー、ブランド、ファン、社会運動が、彼女に乗せる意味はあまりにも大きい。
これは、少しだけ公務員に似ていると思った。
公務員である、というだけで、選挙事務もやる。
災害時には避難所担当もやる。
町会からの相談も受ける。
市民から制度の説明を求められる。
ときには、自分の担当ではないことまで「市の人なんだから分かるでしょう」と言われる。
本人は、「いや、私はその分野の専門家ではないんですけど」と思っていても、社会の側は「公務員」という記号でいろいろな役割を乗せてくる。
大坂なおみさんも、もしかしたら似たようなところがあるのかもしれない。
「え、私はテニス選手なんだけど」
「文化とか、政治とか、歴史とか、そんなに詳しいわけではないんだけど」
「差別されるのは腹が立つ。でも、だからといって、すべての社会問題を語れるわけではないんだけど」
「いろんな衣装を着るより、本当は練習したいんだけど」
そんな気持ちが、どこかにあるのかもしれない。
もちろん、それは想像である。
本人が実際にどう思っているかは分からない。
ただ、一人の人間が、あまりにも大きな記号として担がれていく構造は、たしかにあると思う。
歴史を振り返ると、ジャンヌ・ダルクのことを思い出す。
彼女は、一人の少女である前に、戦場において「聖女」という記号だった。
沈みかけた軍の士気を立て直すために、神の加護を可視化する存在として必要とされた。
兵士たちにとって重要だったのは、彼女の内面や弱さや迷いではなく、「神に選ばれた乙女が旗を掲げている」という事実だったのだと思う。
そこでは、本人の身体に、本人以上の意味が乗せられる。
彼女は少女である。
けれど、軍は彼女を少女として扱わない。
国家は彼女を一人の人間として扱わない。
民衆もまた、彼女の不安や恐怖よりも、「聖女」という記号を求める。
記号として機能しているあいだ、彼女は必要とされる。
その記号が不要になれば、あるいは制御不能になれば、今度は別の物語の中で処理される。
人間が記号になるとは、そういうことなのだと思う。
現代のアイコンも、形は違うが、似た構造の中にいる。
戦場は、かつての戦争ではない。
いまの戦場は、SNSであり、スポンサー経済であり、ブランド戦略であり、メディア空間である。
そこでは、人間は「本人」としてではなく、「何を象徴するか」によって扱われる。
大坂なおみさんは、テニス選手である。
けれど、同時に「多様性」を象徴する人として扱われる。
「日本」を象徴する人として扱われる。
「黒人女性」を象徴する人として扱われる。
「新しい時代のアスリート」を象徴する人として扱われる。
「社会に声を上げる人」として扱われる。
「ファッションで物語を語る人」として扱われる。
それらは、本人にとって誇らしい面もあるだろう。
しかし同時に、あまりにも重い役割でもある。
社会は、彼女のテニスだけを見ない。
服を見る。
髪を見る。
肌を見る。
発言を見る。
沈黙を見る。
ルーツを見る。
国籍を見る。
誰と一緒にいるかを見る。
どんな言葉を使うかを見る。
そして、それらすべてに意味を付ける。
このとき、本人はだんだん「本人」ではなくなる。
彼女は、彼女自身である前に、メディアが必要とする物語の運搬装置になる。
スポンサーが必要とするブランド価値になる。
社会が必要とする多様性の証明になる。
ファンが必要とする希望になる。
批判者が必要とする矛盾の象徴になる。
ここに、現代の残酷さがある。
一人の人間を、社会が勝手に記号として担ぎ上げる。
そして、その記号が期待通りに機能しなければ、今度は失望する。
今回の白い和装の件も、その構造の中で起きたのかもしれない。
本人にとっては、もしかしたら単純なものだったのかもしれない。
白い衣装。
着物っぽいシルエット。
日本っぽさ。
自分のルーツ。
ウィンブルドンの白。
『キル・ビル』のルーシー・リュー。
かっこいい。
特別感がある。
なんか、いい感じ。
そのくらいの感覚だった可能性もある。
しかし、周囲の装置はそれを放っておかない。
それは「日本文化へのリスペクト」になる。
「日本への愛」になる。
「ヘリテージ」になる。
「儀礼」になる。
「セレモニー」になる。
「多文化的自己表現」になる。
「ウィンブルドンの伝統と日本文化の融合」になる。
言葉がどんどん大きくなる。
そして、その大きくなった言葉が、日本文化の側から見たときに耐えられないほど雑だった。
白い和装は、日本人にとって軽い記号ではない。
白無垢だけでなく、死装束、白装束、切腹、葬送、神事、覚悟の気配を持つ。
その重さを引き受けないまま、「リスペクトと愛」という言葉で包まれると、強い違和感が生まれる。
前回の日記で私は、そこに抗議した。
その気持ちは変わらない。
ただ、同時に思う。
もしかしたら、大坂なおみさん自身もまた、巨大な記号消費の中で、自分でも持て余しているのかもしれない。
彼女は、日本文化を記号として消費したように見える。
しかし彼女自身もまた、世界から「多様性」や「日本」や「反差別」や「ファッション」の記号として消費されている。
ここに、二重のしんどさがある。
記号として消費される人間が、今度は別の文化を記号として消費してしまう。
表象される側の痛みを知っているはずの人が、別の場面では表象する側に回り、その文化の重さを取りこぼしてしまう。
これは、彼女一人の問題というより、現代のメディア社会そのものの問題なのだと思う。
社会は、分かりやすい記号を求める。
複雑な人間より、分かりやすいアイコンを求める。
複雑な文化より、映える文化記号を求める。
長い歴史より、一枚の写真で伝わる物語を求める。
だから、人間も文化も、どんどんパッケージ化されていく。
日本文化は「桜、鶴、着物、白、かんざし」になる。
大坂なおみさんは「日本、ハイチ、黒人女性、テニス、反差別、ファッション」になる。
ジャンヌ・ダルクは「聖女、旗、神の加護、殉教」になる。
そして、本人の身体や、文化の地層や、そこにある恐れや痛みや矛盾は、後ろに押し流されていく。
システムにとって必要なのは、本人ではない。
本人が持つ迷いや弱さや知識不足や葛藤ではない。
必要なのは、その人が記号として機能することである。
これは、とても怖いことだと思う。
私たちは、人間を見ているつもりで、実は記号を見ている。
文化を見ているつもりで、実は記号の詰め合わせを見ている。
そして、その記号に怒ったり、感動したり、消費したりしている。
もちろん、だからといって責任が消えるわけではない。
大坂なおみさんは、自分の身体でその衣装を着た。
自分の名前で「日本文化へのリスペクト」と語った。
だから、その表象に対して批判される責任はある。
しかし同時に、その批判は、彼女個人だけで終わらせてはいけないとも思う。
本当に問うべきなのは、一人のアスリートに、文化、政治、差別、ファッション、商業性をまとめて背負わせる社会の構造である。
一人の人間を「多様性のアイコン」として担ぎ上げ、その身体に意味を詰め込み、商品として流通させる装置である。
そして、文化を「映える記号」として切り取り、リスペクトという言葉で飾って消費する経済のあり方である。
大坂なおみさんも、テニス以外で大変なのだと思う。
本当は、テニス選手として見られたい瞬間もあるだろう。
文化や差別やファッションや政治のすべてを背負えるわけではないだろう。
自分のルーツについても、いつも完璧な言葉を持っているわけではないだろう。
それでも、世界は彼女に意味を求める。
彼女の衣装に意味を求める。
彼女の沈黙に意味を求める。
彼女の発言に意味を求める。
そこには、少し同情する。
けれど、それでもやはり、言わなければならないことはある。
日本文化へのリスペクトを語るなら、日本文化を学んでほしい。
白い和装を使うなら、その重さを引き受けてほしい。
自分が記号として消費される苦しさを知っているなら、他の文化を記号として消費することにも敏感であってほしい。
人間を記号にするな。
文化を記号にするな。
リスペクトという言葉で、消費を美化するな。
大坂なおみさんへの批判は、彼女を貶めるためだけのものではない。
彼女自身をも巻き込んでいる、現代の記号消費のシステムへの批判でもある。
人間が本人であり続けること。
文化が記号の詰め合わせにされないこと。
その両方を守るために、私たちは違和感を言葉にする必要があるのだと思う。

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