第5回 「お金のない世界」は、本当に信頼社会なのか――貨幣という信用技術
ここまで、私は「ワクワク」「魂」「波動」といった言葉が、生活の中の小さな真実としては人を支える一方で、それを宇宙全体の万能理論にしてしまうと危うい、という話をしてきた。
今回は、その議論を「お金」に移したい。
雑栗わかる氏は、『もしもこの世界からお金がなくなったら』の中で、お金が突然消えた世界を思考実験として描いている。
そこで描かれるのは、最初こそ混乱するが、やがて人々が都市を離れ、地方や自然に近い場所で自給自足的に暮らし、食べ物を分け合い、信頼関係を基盤にした共同体を再建していく世界である。
お金に縛られた社会から、人と人、人と自然、人と動植物、そして地球全体が循環する社会へ戻っていく。
そのような構図である。
この問題意識自体は、分からなくもない。
現代社会では、お金があまりにも大きな力を持っている。
何を食べるか。
どこに住むか。
どんな医療を受けられるか。
どんな教育を受けられるか。
どれだけ休めるか。
誰とつながれるか。
どんな経験ができるか。
その多くが、お金によって左右される。
人間の価値まで、年収や資産や市場価値で測られることがある。仕事も、人間関係も、時間も、能力も、自然も、いつの間にか貨幣価値に換算される。人は、自分が何をしたいかよりも、何が稼げるかを考えるようになる。好きなことも、趣味も、承認も、癒やしも、自己実現も、すぐに商品になる。
「あらゆるものが商品になる」
そう感じる瞬間は、確かにある。
だから、「お金が人間を縛っている」という感覚には、一定のリアリティがある。
お金があるから、人は生活費のために嫌な仕事を続ける。
お金があるから、人は他者を損得で見る。
お金があるから、自然や動物や時間まで、売買可能な資源として扱う。
お金があるから、本来は助け合いや贈与や信頼で成り立つはずのものまで、価格表の中に組み込まれる。
このように見れば、「お金のない世界」を想像したくなる気持ちは分かる。
お金がなくなれば、人はもっと助け合うのではないか。
売買ではなく、信頼で結び直されるのではないか。
生活費のための労働ではなく、共同体を維持する営みに戻るのではないか。
人は、自然と共に、もっと素朴に、もっと本来的に暮らせるのではないか。
それは、美しい想像である。
しかし、私はここで立ち止まる。
お金とは、本当に人間性を破壊するだけのものなのだろうか。
お金が消えたとき、消えるのは「冷たい貨幣」だけなのだろうか。
それとも、同時に、見知らぬ他者と協力するための巨大な信用装置も失われるのではないか。
ここを見なければならないと思う。
お金は、単なる欲望の道具ではない。
もちろん、お金は欲望を拡大する。人を競争させる。格差を生む。支配の道具にもなる。貨幣がすべての価値を飲み込む社会は、確かに貧しい。
しかし同時に、お金は、顔も知らない他者と協力するための抽象的な信用技術でもある。
私たちは、毎日、顔も名前も知らない人々の労働に支えられて生きている。
朝起きて蛇口をひねれば、水が出る。
その水を誰が浄水したのか、私は知らない。
水道管を誰が維持しているのかも知らない。
夜間に漏水があったとき、誰が現場へ向かうのかも知らない。
電気がつく。
それを支える発電所、送電網、保守作業員、燃料調達、設備点検のすべてを、私は知らない。
スーパーに行けば米がある。
その米を作った農家の名前を、私は知らない。
精米した人も、袋詰めした人も、運んだトラック運転手も、棚に並べた人も、私はほとんど知らない。
薬を飲む。
その薬を開発した研究者、製造した工場、品質管理をした技術者、承認した制度、流通させた人々を、私は知らない。
道路を歩く。
その道路を設計した人、舗装した人、点検した人、補修した人、苦情対応をした人、予算を組んだ人を、私は知らない。
下水が流れる。
その先で汚水を処理している人の顔を、私は知らない。
それでも社会は回っている。
なぜか。
それは、私たちが一人一人を直接信頼しているからではない。
顔の見える信頼だけで社会が回っているわけではない。
貨幣、契約、税、法、行政、企業、専門職、物流、保険、金融、資格、規格、監査。そうした複数の制度が重なり合うことで、見知らぬ人同士の協力が可能になっている。
私は農家を知らない。
しかし、貨幣を通して米を買える。
私は水道職員を知らない。
しかし、税や料金や制度を通して水道を使える。
私は薬を作った人を知らない。
しかし、医療制度や薬事制度や流通網を通して薬を手に入れられる。
私はトラック運転手を知らない。
しかし、物流と市場を通して商品を受け取れる。
つまり、お金は、人間同士の信頼を破壊しているだけではない。
むしろ、直接には信頼できないほど遠くにいる人々と、間接的に協力するための仕組みでもある。
近い共同体の中では、顔の見える信頼が機能する。
家族。
友人。
近所。
小さな村。
顔見知りの商店。
同じ地域の仲間。
そこでは、「あの人だから」「いつも世話になっているから」「困ったときはお互いさまだから」という関係が成り立つ。
しかし、現代社会はそれだけではない。
都市に住む数十万人、数百万人、数千万人の生活は、顔の見える信頼だけでは支えられない。米も、水も、電気も、医療も、道路も、通信も、下水も、物流も、すべて広域的な分業によって維持されている。
その広域的な分業を可能にしているものの一つが、貨幣である。
ここを見落とすと、「お金のない世界」は、あまりにも美しく見えてしまう。
お金が消えれば、人は信頼を取り戻す。
お金が消えれば、助け合いが戻る。
お金が消えれば、自然な循環に戻る。
本当にそうだろうか。
お金を消しても、希少性は消えない。
食べ物は限られている。
水源は限られている。
土地は限られている。
薬は限られている。
安全な住まいは限られている。
医療知識を持つ人は限られている。
力仕事をできる人も限られている。
子どもや高齢者や病人を支える人手も限られている。
お金が消えても、欲望は消えない。
もっと食べたい。
安全な場所に住みたい。
自分の家族を守りたい。
よい土地を押さえたい。
病気になったら治療を受けたい。
人より少しでも有利な場所を取りたい。
そうした欲望は、貨幣がなくなった瞬間に消えるわけではない。
お金が消えても、暴力は消えない。
むしろ、貨幣という抽象的で可視化された交換媒体がなくなれば、別のものが価値交換の中心になる。
食料を持つ者。
土地を押さえた者。
水源を支配する者。
武器を持つ者。
腕力のある者。
血縁集団を持つ者。
医療知識を持つ者。
農業技術を持つ者。
共同体内で発言力を持つ者。
宗教的・思想的な権威を握る者。
貨幣が消えた世界では、価値交換が消えるのではない。
権力の形が変わるだけである。
むしろ、より原始的で、より逃げ場のない権力が前面に出てくる可能性がある。
貨幣経済には、たしかに冷たさがある。
しかし、その冷たさには、一定の抽象性もある。
お金を払えば、相手と血縁関係がなくても、同じ思想を持っていなくても、同じ共同体に属していなくても、商品やサービスを受け取ることができる。
これは、見方を変えれば、かなり大きな自由である。
血縁に頼らなくてもよい。
村の有力者に気に入られなくてもよい。
宗教共同体に属さなくてもよい。
親族の顔色を見なくてもよい。
地域の序列に従わなくてもよい。
貨幣を通じて、外部とつながることができる。
もちろん、お金がなければ排除されるという問題はある。
そこは重大である。
しかし、お金がなくなれば排除がなくなるわけではない。
むしろ、お金という比較的抽象的な基準が消えた後には、血縁、土地、腕力、序列、思想、共同体への忠誠、性別、年齢、身分、身体能力といった、もっと逃れにくい基準が強くなるかもしれない。
たとえば、小さな共同体で食料を分け合うとする。
誰に多く配るのか。
誰を優先するのか。
病人にどれだけ使うのか。
働けない人をどこまで支えるのか。
共同体に逆らう人にも分けるのか。
外から来た人にも分けるのか。
血縁のない孤立した人にも分けるのか。
お金がなければ、これらの問題が自然に消えるわけではない。
むしろ、誰かが決めなければならない。
そして、決める人には権力が生まれる。
その権力をどうチェックするのか。
不満を持つ人はどこへ逃げるのか。
共同体から排除された人はどう生きるのか。
少数者はどう守られるのか。
力の弱い人は誰に訴えるのか。
「信頼」という言葉だけでは、この問題には答えられない。
信頼は大切である。
しかし、信頼は常に美しいものではない。
信頼は、内側の人を守る。
同時に、外側の人を排除することもある。
信頼は、顔の見える関係を強くする。
同時に、顔の見えない人を見捨てることもある。
信頼は、共同体を温める。
同時に、共同体の中で同調圧力を生むこともある。
貨幣経済に冷たさがあるように、信頼共同体にも息苦しさがある。
だから、「お金から信頼へ」という移行は、単純な善への回帰ではない。
お金を消せば、人間本来の信頼が自然に戻る。
そう考えるのは、あまりにも楽観的である。
本当に問うべきなのは、お金をなくすことではない。
お金が担っている機能を、どう分解して考えるかである。
お金は、欲望を拡大する。
お金は、格差を生む。
お金は、人間関係を市場化する。
お金は、自然を資源化する。
お金は、労働を生活費のための苦役にする。
これは確かにある。
しかし同時に、
お金は、見知らぬ他者と協力する。
お金は、血縁や地縁から人を解放する。
お金は、広域的な分業を可能にする。
お金は、専門職への報酬を可能にする。
お金は、税を通じて公共サービスを支える。
お金は、個人が共同体の外へ逃げる手段にもなる。
こちらの側面もある。
だから、問題は「お金があるかないか」ではない。
お金が、社会のすべての価値を支配してしまうこと。
市場が、生活のすべてを飲み込んでしまうこと。
貨幣価値で測れないものが、軽視されてしまうこと。
公共性や贈与やケアや自然が、価格の下に置かれてしまうこと。
ここに問題がある。
つまり、必要なのは脱貨幣ではなく、貨幣の相対化である。
お金を神にしない。
しかし、お金を悪魔にもしない。
貨幣が担っている調整機能を認めながら、それがすべてを支配しないようにする。
市場の力を使いながら、市場だけで社会を作らない。
公共性、行政、福祉、教育、医療、地域、家族、友人、贈与、ボランティア、自然環境を、それぞれの役割に応じて組み合わせる。
そういう設計が必要なのだと思う。
「お金だけの世界」は、たしかに貧しい。
しかし、「お金をなくせば愛と信頼に戻る」という世界観もまた、現実の複雑さを消している。
お金のない世界は、必ずしも信頼社会ではない。
それは、食料を持つ者が強くなる世界かもしれない。
土地を持つ者が強くなる世界かもしれない。
水源を押さえた者が強くなる世界かもしれない。
武器を持つ者が強くなる世界かもしれない。
共同体内の序列が、逃げ場なく人を縛る世界かもしれない。
貨幣経済から信頼共同体へ移行するのではなく、貨幣経済から、暴力資本、土地資本、血縁資本、共同体内序列の社会へ退行する可能性もある。
だからこそ、「お金のない世界」を語るなら、そこまで考えなければならない。
お金は人間を冷たくする。
それは一面では本当である。
しかし、お金は、見知らぬ人間同士が協力するために、人類が作り出した不完全だが強力な信用技術でもある。
その技術をどう相対化するか。
どう公共性の中に位置づけ直すか。
どう市場だけに社会を支配させないか。
問うべきなのは、そこではないか。
お金を消すことではない。
お金を、神の座から降ろすこと。
しかし、社会を支える道具としての働きを、きちんと見つめ直すこと。
そこからしか、現実に耐えうる「お金の批判」は始まらないと思う。

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