オオカミの話を考えていたら、今度は神社のことが気になってきた。
オオカミに魚を供える。
喜んでもらえる。
守ってもらえる。
その構造は、どこかお賽銭と似ている。
そこでふと思った。
もし本当に神社のお守りに、
「一年間、絶対に交通事故に遭いません」
という効能保証がついていたらどうなるだろう。
私は100円や500円では済まさないと思う。
1万円でも安い。
10万円でも安い。
保険会社が潰れるくらい売れるだろう。
無病息災も同じだ。
もし本当に病気にならないなら、
難病の人は家を売ってでも買うかもしれない。
健康保険より高くても売れるだろう。
でも現実は違う。
みんな100円を入れる。
500円を入れる。
お守りを買う。
そして普通に病院にも行く。
生命保険にも入る。
車の任意保険にも入る。
つまり誰も、お守りが事故や病気を防げるなどとは思っていない。
それなのに神社はなくならない。
むしろ多くの人が初詣に行く。
交通安全のお守りも買う。
なぜだろう。
そこで気付いた。
もしかすると人は、
無病息災を買っているのではなく、
無病息災「感」を買っているのかもしれない。
家内安全そのものではなく、
家内安全「感」。
守護そのものではなく、
守られている感覚。
そう考えると、
オオカミの魚も少し見え方が変わる。
魚を供えたから本当に守護力が上がるのかは分からない。
でも、
「今日も魚を供えた」
という行為そのものが、
誰かとの関係を感じさせる。
守られている感覚を与える。
安心を与える。
私は別にそれが悪いとは思わない。
むしろ人間には必要なものだと思う。
ただ、ここで少し不思議なことがある。
神社だけではない。
よく考えると、
世の中には「感」が付くものがやたら多い。
成功感。
健康感。
若さ感。
高級感。
恋愛感。
安心感。
もしかすると私たちは、
思っている以上にたくさんの「感」を買いながら生きているのかもしれない。
そんなことを考えながらスーパーを歩いていたら、
ペットボトルのお茶や健康食品やサプリメントの棚が、
少し違って見えた。

コメント