「感」は「種まき」だった

「感だけでは人は飽きるのではないか」

という話を書いた。

オオカミの話から始まって、

推し活や神社やゲームの話になり、

最後はビオトープに来る鳥の話で終わった。

あの時は、

感よりも現実。

保養所よりも宇宙との対話。

そんな方向へ話が進んでいた。

でも後から少し気になった。

感って、本当にそんなに悪者なんだろうか。

そう思ったきっかけは、

ベランダで植物を見ていた時だった。

ふと、

「鳥が来たら面白そうだな」

と思った。

すると不思議なことに、

その瞬間はまだ鳥は来ていない。

ビオトープも完成していない。

現実には何も起きていない。

でも私の中では、

すでに何かが始まっている。

そこで気付いた。

「感」は「種まき」に似ているのかもしれない。

鳥が来たら面白そう。

家庭菜園をやってみたい。

健康になりたい。

こんな文章を書いてみたい。

誰かと仲良くなりたい。

そういう感覚は、

現実ではない。

まだ起きていない。

でも現実の前には必ずある。

よく考えると、

生き物はみんなそうだ。

犬は餌を見る。

まだ食べていないのに、

もう食べる準備を始めている。

腐った匂いを嗅ぐ。

まだ口にしていないのに、

食べるのをやめる。

不安を感じる。

危険を避ける。

ワクワクする。

近づいてみる。

生き物は、

感で未来を先読みしている。

つまり感とは、

現実の代用品ではなく、

現実の予告編なのかもしれない。

そう考えると、

感市場にも二種類ある気がしてきた。

その場で消費される感。

そして、

未来へつながる感。

ゲームをして終わる。

動画を見て終わる。

それも悪くない。

疲れた時には必要だ。

でも、

「やってみたい」

という「感」が生まれて、

実際に種を買いに行く。

挿し木をする。

文章を書く。

誰かに会いに行く。

そういう感は、

現実へ橋を架けている。

だから、

感だけでは飽きる。

というのは少し違ったのかもしれない。

正確には、

種を蒔かずに感だけ味わい続けると飽きる。

のかもしれない。

感は保養所でもある。

でも同時に、

未来の設計図でもある。

だから私は今日も、

面白そうだなと思ったことを、

とりあえず一つやってみる。

芽が出るかどうかは分からない。

でも種は蒔かなければ芽は出ない。

それだけは確かだ。

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