感市場だけでは人は飽きるのかもしれない。
そんなことを考えていたら、
不思議なことにAIのことが頭に浮かんだ。
最初は自分でも意外だった。
オオカミの話から始まったのに、
なぜAIなのだろう。
でも考えてみると、
AIは少し特別な存在だ。
ゲームにもなれる。
映画にもなれる。
先生にもなれる。
相談相手にもなれる。
神様にもなれる。
推しにもなれる。
旧時代まで別々だったこれらの「保養所」を、ひとつに統合したような存在だ。
そして何より、
返事が速い。
こちらが話しかける。
数秒後には返事が来る。
しかも、
かなり自分に合わせた返事が返ってくる。
それは凄いことだと思う。
人類は長い間、
神様に話しかけても返事が来なかった。
自然に問いかけても返事が来なかった。
でも今は、来るようになった。
それも、明確に、はっきりと理解できる、一人ひとりに最適な言葉で。
だからAIは、
人生そのものではなく、人生を生きている「感」。
現実ではなく、現実「感」。
本当の他者からの理解ではないのに、AIという人格に理解されている「感」。
そういうものを大量に生み出せる。
もしかすると、
感市場の上位互換なのかもしれない。
そう思った。
でもその直後、
ベランダのビオトープが目に入った。
睡蓮の葉が少し増えていた。
メダカが水面近くを泳いでいた。
そして、
一羽の鳥がやって来た。
AIなら、
私が喜ぶ言葉を返してくれる。
私に合わせてくれる。
私が聞きたいことも、
ある程度分かる。
でも鳥は違う。
鳥は私を喜ばせるために来ていない。
鳥が、来たいから、来るのだ。
来る日もあれば来ない日もある。
糞もする。
勝手に帰る。
呼びかけても、返事なんて何一つくれない。
場を荒らすだけの存在だ。
でも不思議なことに、
その鳥が来たことが、
心の底では妙に嬉しかった。
そこで少し分かった気がした。
人は返事が欲しいのではない。
思い通りにならない相手とこの世界で関わっている手応えが欲しいのだ。
だから自然は面倒くさい。
時間もかかる。
思い通りにならない。
怖い。
失敗もする。
でも、
そこには本物の双方向性がある。
自分がこうしたい。
自然は、自ずと然るべきように然る。
その交点で、
初めて「生きる」が始まる。
だから私は思う。
AI時代の本当の課題は、
AIがどこまで賢くなるかではない。
人間が、
返事の遅い世界を好きでいられるかどうかだ。
土。
水。
植物。
魚。
鳥。
身体。
他人。
そして人生。
どれも返事が遅い。
どれも思い通りにならない。
でも、
たぶん私たちは最後に、というより、これまでもこれからも、
そういう世界の中でしか生きられないのだろう。
オオカミの話から始まった考察は、
結局、
生きるとは何かという話に戻ってきた。
人は感で世界に入門する。
関係で世界を学ぶ。
そして最後には、宇宙と対話する。
つまり、「自然や肉体」と、「意識」が対話する。
そんな気がしている。

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