感市場という言葉を思いついてから、
なんだか色々なものが同じ構造に見えるようになった。
推し活。
ゲーム。
映画。
神社。
オオカミ。
恋愛。
美容。
健康食品。
どれも少しずつ違う。
でも共通しているものがある。
それは、
「こう感じたい」
という願いだ。
安心したい。
愛されたい。
守られたい。
成功したい。
若くありたい。
生きている実感がほしい。
そう考えると、
感市場は人間にとって必要なものだと思う。
人間は「感」なしでは生きられない。
ところが、
考えているうちに不思議なことに気付いた。
人はなぜ年を取ると、
土いじりを始めるのだろう。
家庭菜園。
盆栽。
ガーデニング。
ビオトープ。
若い頃には興味がなかった人まで、
なぜか土を触り始める。
最初は「暇だから…?」だと思ったりもしたが、
でもどうも違う気がする。
土は思い通りにならない。
水をやりすぎれば腐る。
足りなければ枯れる。
鳥は来る日もあれば来ない日もある。
魚は病気にもなる。
自然は人間の期待に合わせて動いてくれない。
つまり、
返事が返ってくる。
しかもこちらの都合とは関係なく。
その時ふと思った。
もしかすると、
「感」は比較的「非双方向的」なのではないか。
推し活も、
ゲームも、
映画も、
神社も、
そもそもが独り相撲というか、自己満足というか、自己完結的というか。
結局は「自分がどう感じたか」しかない世界である。
もちろん価値がないわけではない。
でも中心にあるのは、
「自分がどう感じたか」
だ。
一方で、
自然は違う。
こちらが何を思おうが、
芽が出る時は出る。
出ない時は出ない。
鳥は気まぐれにやって来る。
魚は勝手に卵を産む。
世界が返事をしてくる。
だから人は、
感市場だけでは飽きるのかもしれない。
もちろん、感市場は「保養所」として、素晴らしい役割を果たしているとは思う。
疲れた人を休ませる。
傷ついた人を慰める。
でも、
保養所は保養所だ。
住む場所ではない。
そう考えた時、
少し怖いことを思った。
もし人類が、
「感」だけで一生を満足して過ごせるようになったらどうなるのだろう。
もし現実よりも、
感の方が快適になったらどうなるのだろう。
そんなことを考えながら、
ベランダのビオトープを眺めていた。
すると一羽の鳥がやって来た。
別に私を喜ばせるためではない。
サービスでもない。
たまたまだ。
でも、
なぜだろう。
その日のどんなコンテンツよりも、
その鳥の方が嬉しかった。

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