昨日、オオカミに魚を供える話を読んでから、なんとなく頭の片隅に引っかかっていた。
オオカミ。
推し活。
ゲーム。
神様。
これらは本当に別のものなのだろうか。
そんなことを考えていたら、ふと子供の頃のおままごとを思い出した。
子供はまだ家族を持っていない。
結婚もしていない。
料理もしていない。
それでも、
「ママ役やるー!」
と言って遊ぶ。
おもちゃの包丁で野菜を切り、
おもちゃのレジで買い物をし、
おもちゃの赤ちゃんを寝かしつける。
本物ではない。
でも本人は真剣だ。
私は昔、おままごととは子供だけの遊びだと思っていた。
でも考えてみると、大人も似たようなことをしている。
アイドルを応援する。
ゲームのキャラクターを育てる。
ペットに話しかける。
神様にお願いする。
オオカミに魚を供える。
もちろん、それぞれ意味も文化も違う。
でも共通しているのは、
「本物そのものではない」
ということかもしれない。
アイドルと家族になるわけではない。
ゲームのキャラクターと一緒に老後を迎えるわけでもない。
神様と晩ご飯を食べるわけでもない。
オオカミと散歩するわけでもない。
でも、それらは何かを体験させてくれる。
応援している感覚。
守られている感覚。
誰かの役に立っている感覚。
生きている感覚。
子供のおままごとも同じだ。
家族そのものではない。
でも家族「感」は体験できる。
だから私は少し考え込んでしまった。
もしかすると、おままごとは子供の遊びではないのかもしれない。
人間は一生、おままごとを続けているのかもしれない。
ただ年齢とともに、
おもちゃの包丁が推しグッズになり、
おもちゃの赤ちゃんがゲームキャラになり、
おもちゃの神様が本物の神様になっていくだけなのかもしれない。
そして、もしそうだとしたら。
私たちは何を求めて、おままごとを続けているのだろう。
その答えはまだ分からない。
でも、どうやらオオカミの話は、思ったより奥が深そうだ。

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