水槽の中で、泳ぎながら考える

前回、AIは「流通版」として私たちに配られているのかもしれない、という話を書いた。

核兵器は流通しない。
銃は国や条件によって流通する。
包丁は日用品として流通する。
AIも同じように、危険度や用途に応じて、公開されるものと、されないものが分かれていくのではないか。

そんなことを書いたあとで、ふと思った。

もし私たちが、管理された環境の中にいるメダカのようなものだとして、では、そのメダカは、自分の水槽が人工物であることに気づいた方が幸せなのだろうか。

メダカは、自分の水槽が人工的に管理された環境だとは思っていないかもしれない。
水草があり、水流があり、餌が落ちてくる。
外敵はいない。
繁殖もできる。

それは、メダカにとってかなり幸せな環境だ。

では、メダカが急にこう考え始めたらどうだろう。

ここは管理された人工環境かもしれない。
この餌は自然の餌ではなく、人工フードかもしれない。
上から鳥が来るかもしれない。
岩陰から肉食魚が出てくるかもしれない。
だから、餌は食べない。
だから、泳がない。
だから、安全な場所に引きこもる。

それは本当に、メダカにとって幸せなのだろうか。

たぶん違う。

疑うことは大切だ。
でも、疑いすぎて餌を食べず、泳がず、生きることそのものを止めてしまうなら、それは観測ではなく停止だ。

人間も同じだと思う。

この社会は管理されているかもしれない。
AIの答えは調整されているかもしれない。
選択肢は、誰かに並べられているのかもしれない。
自分が自由に選んでいると思っているものも、実はうまく誘導されているのかもしれない。

そう疑うことはできる。

でも、だからといって、何も食べず、何も選ばず、何も作らず、誰とも関わらずに引きこもるなら、それは自由ではない。
むしろ、疑いに支配されている。

水槽の外を見ようとしすぎて、水槽の中で泳ぐことを忘れてしまう。

それもまた、ひとつの不幸だ。

だから、今日の着地点は単純な反AIでも、反管理社会でもない。

たぶん必要なのは、
泳ぎながら、水流の向きに気づくことだ。

餌を食べる。
泳ぐ。
暮らす。
働く。
遊ぶ。
人と話す。
創作する。

そのうえで、ふと考える。

この餌は、誰が落としているのだろう。
この水流は、どこから来ているのだろう。
この水草の配置は、自然なのだろうか。
この安全は、誰の設計によって保たれているのだろう。

全員がそこまで考え続ける必要はない。
それはしんどすぎる。

多くの人にとっては、よく管理された環境の中で、自然だと感じながら生きることが幸せなのかもしれない。
それは馬鹿にするような話ではない。
むしろ、生き物としてはかなり自然なことだと思う。

でも、誰も水槽を水槽だと思わなくなったら、少し怖い。

そのとき、水槽を設計する側は、ほとんど神様になってしまう。
餌を落とすタイミングも、水流の強さも、光の当て方も、繁殖のしやすさも、全部向こう側が決める。

中にいるメダカは、幸せかもしれない。
でも、その幸せが誰の都合で設計されているのかは、分からない。

AI時代の難しさは、ここにあるのだと思う。

AIは、核兵器のように一発で世界を壊すものではないかもしれない。
むしろ、もっと静かに、もっと便利に、もっと気持ちよく、世界の水流を変えていく。

しかも、その水流は目に見えにくい。

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そのすべてに、少しずつAIの水流が入り込む。

気づいたときには、私たちはその流れを「自然」だと思っているかもしれない。

だからこそ、私は思う。

水槽の中で泳ぐことをやめてはいけない。
でも、水槽であることを完全に忘れてもいけない。

餌は食べる。
でも、餌が落ちてくる仕組みにも、たまには目を向ける。
水草の間を泳ぐ。
でも、水草の配置があまりにも都合よくできていることにも、少しだけ気づいておく。

それくらいが、たぶん人間にできる現実的な抵抗なのだと思う。

自由と幸福は同じではない。
管理されていないことと、幸せであることも同じではない。

でも、管理されていることを完全に忘れた幸福は、いつでも支配に変わりうる。

私はメダカとして泳ぎたい。
餌も食べたい。
水草の間を気持ちよく抜けたい。

でも、たまに水面の上を見上げるくらいのメダカではいたい。

そこに誰かの手があるのか。
光はどこから来ているのか。
餌はなぜ、このタイミングで落ちてくるのか。

そんなことを考えながら、それでも今日も泳ぐ。

AI時代の人間は、もしかすると、そういう生き物になるのかもしれない。

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