第10回 不明を抱えたまま祈る思想へ(ワクワクは、誰の足場の上に咲いているのか)

第10回 不明を抱えたまま祈る思想へ

ここまで、私は雑栗わかる氏の思想や、オンクリ的な「ワクワク」「脱ピラミッド」「お金のない世界」「魂が選んだ」といった言葉を手がかりに、かなり長く考えてきた。

最初に確認したのは、スピリチュアルの入口には、生活の中の小さな真実があるということだった。

笑顔でいた方が、人間関係は少しよくなる。
感謝していると、心が少し整う。
部屋を片付けると、呼吸がしやすくなる。
好きなことに触れると、体の奥から力が戻ってくる。
嫌な場所から離れると、体調がよくなることがある。

そうしたことは、確かにある。

それは、まったくの幻想ではない。
人間は身体を持ち、表情を持ち、関係性の中で生きている。
だから、心がけや態度や環境が、現実の見え方や行動に影響を与えることはある。

スピリチュアルが人を惹きつけるのは、そこに触れるからである。

多くの人は、生活の中でなんとなく感じている。

前向きでいた方が、世界が少し明るく見える。
人に親切にすると、自分も少し軽くなる。
場をきれいにすると、心も少しきれいになる。
食べ物を粗末にすると、なんとなく嫌な感じがする。
神社やお地蔵さんや事故現場の献花を乱暴に扱うことには、法律以前の抵抗がある。

これは、名前を失った宗教感覚なのだと思う。

日本人は自分を無宗教と言うことが多い。
しかし、本当に無宗教なのではなく、宗教的なものが生活態度や所作の奥まで溶け込み、名前を失っているのかもしれない。

神がいるかどうかは分からない。
けれど、神がいるかもしれないほどには、世界を粗末に扱わない。
死者が本当に見ているかどうかは分からない。
けれど、死者の前では少し姿勢を正す。
山や川や木や石に何かが宿っているかどうかは分からない。
けれど、それらをただの物体として乱暴に扱うのは、何かが違う。

この「何かが違う」という感覚は、とても大切である。

私は、そこにスピリチュアルの健全な核があると思う。

問題は、その小さな真実が、世界全体を説明する万能理論へ膨らむときである。

「笑顔でいたら人間関係がよくなった」
ここまではよい。

しかし、そこから、
「だから宇宙には波動の法則がある」
「だから思考が現実を創造する」
「だからワクワクに従えば現実が動く」
と断定し始めると、話は変わる。

生活の知恵が、宇宙の仕様書になってしまう。

もちろん、宇宙にはまだ分からないことがたくさんある。
科学で説明し尽くせない領域もある。
人間の意識、偶然、縁、気配、直感、場の空気。
そうしたものを、すべて機械的に説明できるわけではない。

だから、波動やエネルギーという言葉を、比喩として使うことはできる。
詩的な言葉として使うこともできる。
自分の感覚を表すための仮の言葉として使うこともできる。

しかし、それを宇宙の絶対法則として扱い、他人の人生にまで適用し始めると、危うくなる。

特に、「魂が選んだ」という言葉はそうである。

本人が、自分の苦しみを抱えるために、

「この経験にも意味があるのかもしれない」
「これは自分の魂が選んだ道だったのかもしれない」

と思うことは、否定されるべきではない。

人生には、理不尽なことが起きる。
病気になる。
老いる。
大切な人を失う。
事故に遭う。
努力が報われない。
よかれと思って選んだことが、後で苦しみの種になることもある。
最悪だと思った出来事が、後で道を開くこともある。

まさに、塞翁が馬である。

宇宙そのものの意味は、原理的に分からない。
私たちは宇宙の中にいる以上、宇宙の外側から宇宙そのものの意味を検証することはできない。

だから人は、仮の意味を置く。
苦しみを、ただの破壊として終わらせないために。
自分の人生を、ただの不運の連続として見ないために。
それでも死ぬまでは生きるために。

その意味で、「魂が選んだ」は、本人にとっては祈りになりうる。

しかし、第三者が他人に向かって、

「それはあなたの魂が選んだ経験です」

と言い始めた瞬間、その言葉は暴力になりうる。

貧困。
虐待。
病気。
事故。
災害。
犯罪被害。
労働搾取。
道路陥没。
インフラ事故。

それらに対して、「魂が選んだ」と言ってしまえば、事実の検証も、責任の追及も、制度改善も、支援も、すべて曖昧になる。

本来、事故には原因究明が必要である。
貧困には支援と制度改善が必要である。
病気には医療とケアが必要である。
労働搾取には法と監督が必要である。
災害には備えと復旧が必要である。

意味の層を、事実の層や責任の層に持ち込んではならない。

本人が自分に使う「魂が選んだ」は祈りである。
他人に使う「魂が選んだ」は、支配や責任回避になりうる。

この線引きが必要である。

同じことは、「ワクワクに従う」にも言える。

ワクワクは大切である。

人は、自分の感覚を取り戻す必要がある。
好きなことに触れる必要がある。
世間や会社や親や肩書きだけで、自分の人生を決めない方がいい。
心が動く方へ、小さく進むことは、とても大切である。

しかし、人が何にワクワクできるかは、平等ではない。

過去に何を見たか。
何を経験したか。
どんな本が家にあったか。
どんな大人に出会ったか。
習い事をしたか。
旅行に行ったか。
美術館や図書館や自然に触れたか。
勉強できる環境があったか。
家に安心して眠れる場所があったか。
失敗しても戻れる場所があったか。

それらによって、ワクワクの地図は変わる。

旅行したいと言っても、ある人にとっては一泊二日の熱海旅行であり、ある人にとっては世界一周クルーズであり、ある人にとっては旅行どころか家賃と食費で精一杯である。

植物を育てたいと言っても、ある人にとってはベランダの植え替えであり、ある人にとっては豪邸の庭にトラックで土を運び込むガーデニングである。

寝ていたいと言っても、湿った万年床で横になるのと、高級なベッドで安心して眠るのとでは、まったく違う。

ワクワクには足場がある。

文化資本。
経済資本。
心理的安全性。
教育。
住居。
健康。
情報。
人間関係。
失敗できる余白。
戻れる場所。

これらがなければ、ワクワクは現実に向かう力を持ちにくい。

だから、「ワクワクに従え」は、それだけでは足りない。

本当に問うべきなのは、

人がワクワクできるだけの足場を、社会はどう作れるのか。

である。

教育。
図書館。
奨学金。
住宅支援。
職業訓練。
公共交通。
福祉。
医療。
文化施設。
地域の居場所。
相談支援。
子どもの体験機会。
失敗してもやり直せる制度。

これらは、一見するとワクワクとは遠い、地味な制度である。

しかし実際には、人がワクワクできる範囲を広げるための土壌である。

ワクワクは、制度の反対側にあるのではない。
よい制度は、人がワクワクできる可能性を広げる。

このことは、お金についても同じである。

お金だけの世界は貧しい。

何でも価格で測られる社会。
市場価値で人間が評価される社会。
自然も、ケアも、時間も、感情も、自己表現も、すぐに商品になる社会。

そこには大きな問題がある。

しかし、お金をなくせば愛と信頼に戻る、とは言えない。

お金は、人間を冷たくするだけのものではない。
見知らぬ他者と協力するための信用技術でもある。

私たちは、米を作った人の名前を知らない。
水道管を直した人の顔を知らない。
下水を処理している人を知らない。
薬を作った研究者を知らない。
道路を維持している人を知らない。
物流を担っている運転手を知らない。

それでも社会が回るのは、貨幣、契約、税、法、行政、企業、専門職、物流、保険、金融といった仕組みが、見知らぬ人同士の協力を可能にしているからである。

お金を消しても、希少性は消えない。
欲望も消えない。
病気も、老いも、災害も、暴力も、労働負担も、利害対立も消えない。

むしろ、貨幣という抽象的な交換媒体が消えれば、食料、土地、水源、武力、血縁、共同体内序列、宗教的権威、思想的カリスマが新しい通貨になるかもしれない。

お金のない世界は、必ずしも信頼社会ではない。

貨幣経済から信頼共同体へ移行するのではなく、貨幣経済から、暴力資本、土地資本、血縁資本、共同体内序列の社会へ退行する可能性もある。

だから必要なのは、脱貨幣ではない。

貨幣の相対化である。

お金を神にしない。
しかし、お金を悪魔にもしない。
市場だけで社会を作らない。
しかし、市場を完全に消すのでもない。
公共性、行政、福祉、医療、教育、地域、家族、友人、贈与、ボランティア、自然環境を、それぞれの役割に応じて組み合わせ直す。

これが必要なのだと思う。

同じように、脱ピラミッドという言葉にも注意がいる。

本当にピラミッドを壊すのか。
本当にピラミッドから降りるのか。
それとも、ピラミッドの下支え労働から離れて、情報発信、オンラインサロン、自己表現、スピリチュアル商品、ファン経済、注意経済の側へ移動しているだけなのか。

会社を辞めることは、脱会社ではあるかもしれない。
しかし、それだけで脱社会ではない。
スマホも、通信も、道路も、水道も、電気も、医療も、行政も、治安も、物流も使い続けるなら、ピラミッド社会の外に出ているわけではない。

むしろ、ピラミッド社会の成果物を使いながら、より上澄みの場所へ移動しているだけかもしれない。

そして、その上澄みを支えているのは、今も下で働く人々である。

介護をする人。
ごみを回収する人。
下水を処理する人。
道路を直す人。
物流を担う人。
消防に出る人。
災害現場に入る人。
医療現場で夜勤する人。
行政の地味な調整をする人。
苦情対応をする人。

ワクワクしにくい労働を、誰かが担っている。

では、みんながワクワクに従ったら、それらの仕事はどうなるのか。

ここに答えないワクワク論は、社会思想にはならない。

個人の解放術としてなら、意味がある。
しかし、社会全体を語るなら、必要労働を誰が担い、どう報い、どう減らし、どう分担し、どう弱い立場の人に押し付けないのかを考えなければならない。

賃金を上げるのか。
待遇を改善するのか。
機械化するのか。
社会全体で分担するのか。
サービス水準を下げるのか。
外国人や弱い立場の人に押し付けるのか。

この問いを避けたままの「脱ピラミッド」は、ピラミッドを壊す思想ではなく、ピラミッドの上澄みに移動する技術になってしまう。

私は、そこに強い違和感がある。

花は美しい。

ワクワク。
自己表現。
創作。
祈り。
自然。
仲間。
好きなこと。
個性。
愛。

それらは、確かに花である。

しかし、花は根の上に咲く。

水道。
下水。
道路。
電気。
通信。
物流。
医療。
消防。
警察。
行政。
教育。
法制度。
税。
農業。
廃棄物処理。
保守点検。
契約。
苦情対応。
災害対応。

これらは根である。

根は見えない。
目立たない。
感動的に語られにくい。
映えない。
ワクワクしにくい。
けれど、根がなければ花は咲かない。

だから、花を語るなら、根を見なければならない。

スピリチュアルが「見えないものを大切にしよう」と言うなら、見えない波動だけではなく、見えない労働も見なければならない。

植物のエネルギーを語るなら、植木屋の手も見なければならない。
街路樹の癒やしを語るなら、道路管理者、剪定、草刈り、落ち葉処理、害虫対応も見なければならない。
自然の循環を語るなら、水利、農業技術、災害対応、土地管理も見なければならない。
宇宙の神秘を語るなら、毎朝ごみが回収され、蛇口から水が出て、下水が流れ、バスが走るという、社会の神秘も見なければならない。

私にとって、神秘は高次元だけにあるのではない。

下水処理場にもある。
夜間の道路補修にもある。
保健所の記録にもある。
税務課の封筒にもある。
ごみ収集車の朝のルートにもある。
災害備蓄倉庫にもある。
公共交通の時刻表にもある。

それらは、宇宙の神秘という言葉よりも、ずっと具体的な神秘である。

見知らぬ人々が、見知らぬ人々のために、毎日社会を維持している。
これは、ほとんど奇跡である。

だから私は、世界樹のように社会を見たい。

地球という土壌がある。
自然環境がある。
そこに、インフラ、農業、物流、エネルギー、下水、道路、医療、行政、制度、税、教育という根が張る。
その上に、法、公共性、企業、学校、地域、共同体、家庭という幹が立つ。
そこから、文化、商い、人間関係、創作、遊び、信仰という枝が伸びる。
そして、ワクワク、自己表現、芸術、思想、祈り、愛という花が咲く。

花だけが世界ではない。
根だけが世界でもない。
幹だけでもない。

すべてがつながっている。

だから、私はスピリチュアルを全否定したいのではない。

むしろ、祈りとしてのスピリチュアルは残したい。

人間は、事実だけでは生きられない。
制度だけでも生きられない。
行政サービスだけでも、貨幣だけでも、インフラだけでも生きられない。

人には、歌がいる。
祈りがいる。
意味がいる。
物語がいる。
花がいる。

しかし、その祈りは、不明を抱えたままでなければならないと思う。

宇宙そのものの意味は分からない。
死後のことは分からない。
魂があるかどうかは分からない。
波動が現実をどう動かしているのかも分からない。
ワクワクが本当に宇宙の正解なのかも分からない。

分からない。

この「分からない」を消してはいけない。

「宇宙はこうです」
「魂はこうです」
「あなたの苦しみはこういう意味です」
「ワクワクに従えば現実はこう動きます」

そう断定した瞬間、祈りは教義になり、教義は支配になる。

健全なスピリチュアルとは、不明を消すものではなく、不明を抱えたまま生きるための所作なのだと思う。

神がいるかどうかは分からない。
けれど、神がいるかもしれないほどには、世界を粗末に扱わない。

魂があるかどうかは分からない。
けれど、自分の苦しみに意味を置かなければ生きられない夜がある。

波動があるかどうかは分からない。
けれど、自分の言葉や態度が、場の空気を変えることはある。

宇宙が応援しているかどうかは分からない。
けれど、好きなことをしていると、自分が少し生き返ることはある。

このくらいの距離感で、私は十分だと思う。

断定しない。
押しつけない。
社会の責任を消さない。
他人の苦しみを勝手に意味づけない。
制度や労働やインフラを軽んじない。
それでも、自分の人生に仮の意味を置く。
世界を粗末に扱わない。
自分の花を咲かせたいと願う。

そこに、祈りとしてのスピリチュアルが残る。

そして、その祈りは、公共性と対立しない。

むしろ、本当に深い祈りは、公共性へ向かうはずである。

自分が生き延びたい。
自分の苦しみに意味を見出したい。
自分のワクワクを大切にしたい。

そこからさらに進んで、

では、他の人も生き延びられる社会にするにはどうすればよいか。
他の人も、自分の苦しみに意味を見出す余白を持つにはどうすればよいか。
他の人も、ワクワクできる足場を持つにはどうすればよいか。
その足場を支える労働を、どう尊重し、どう報いるか。

ここへ向かうなら、スピリチュアルは社会思想に近づく。

しかし、そこへ向かわず、

自分だけがワクワクする。
自分だけが目覚める。
自分だけが上澄みに移動する。
自分の苦しみだけを魂の物語で癒やす。
社会の根を支える人々は見ない。

となるなら、それはあまりに狭い。

本当に必要なのは、脱貨幣ではなく、貨幣の相対化である。
脱ピラミッドではなく、公共性の再設計である。
ワクワクだけではなく、ワクワクできる足場を作ることである。
魂の物語だけではなく、事実と責任の層を見失わないことである。
花だけではなく、根を見ることである。

お金は神ではない。
しかし、単なる悪でもない。

行政は完全ではない。
しかし、単なる支配装置でもない。

インフラは当たり前ではない。
誰かの労働で維持されている。

ワクワクは大切である。
しかし、ワクワクは足場の上に咲く。

スピリチュアルは人を救うことがある。
しかし、他人の苦しみを説明し尽くす権利はない。

だから、私は最後にこうまとめたい。

心がけとしては本当。
祈りとしては有効。
自分を支える物語としては尊い。

しかし、宇宙法則としては未確定。
社会論としては不十分。
他人に押しつければ暴力になりうる。

この線引きから、もう一度始めたい。

ワクワクは、誰の足場の上に咲いているのか。

その問いは、ワクワクを否定するための問いではない。
ワクワクを本当に守るための問いである。

花を長く咲かせたいなら、根を守らなければならない。
自由を広げたいなら、足場を整えなければならない。
祈りを残したいなら、断定を手放さなければならない。
社会を変えたいなら、見えない労働を見なければならない。

そこからしか、現実に耐えうるスピリチュアルも、社会思想も始まらない。

私はそう思っている。

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