酸っぱいブドウは、本人が揺らしてはいけない。

ある動画を見た。
お笑い芸人が、新宿二丁目のゲイバーで「めちゃくちゃモテた」と語るトーク動画である。

彼が、男性同性愛者の一部から好まれやすい要素を持っていることは、確かに分かる。
大柄で、柔らかく、いじられても笑って受け止める。
二丁目の一部の文脈で歓迎されたとしても、それ自体は不思議ではない。

しかし、見終わった後、私の中には強い違和感が残った。
最初は、それが何なのかうまく言葉にならなかった。
ただ「面白い」と消費するには、どこか飲み込みづらい小骨のようなものがあった。

その正体を考えていくうちに、私は四つの痛みに思い至った。

一つ目は、マッチングしない好意を「安全圏」から扱われる痛みである。

ノンケ男性にとって、二丁目でのモテ体験は、少なくとも社会的には、かなり安全な娯楽になり得る。
翌日には異性愛社会という本線へ帰り、その体験を笑い話として語ることもできる。

けれど、マイノリティ側から向けられる好意には、しばしば「決して交わらない」という諦念が張り付いている。


好意を向ける側は、最初から届かなさを知っている。
その視線には、憧れだけでなく、諦めや恥ずかしさや、少しの痛みも含まれている。

だからこそ、その好意が「俺、モテたんですよ」という形でカジュアルなトロフィーのように持ち帰られると、そこには強い非対称性が生まれる。
切実さを含んだ視線が、安全な場所にいる人の武勇伝の材料になってしまう。
少なくとも私には、そのように見えた。

二つ目は、内輪の欲望を勝手に外へ持ち出される恥ずかしさである。

二丁目という空間は、マジョリティの重力から逃れるための避難所でもある。
そこで交わされる視線や冗談やファンタジーは、外の世界に出せば誤解されるかもしれない。
だからこそ、暗黙の了解の中で、ひそかに守られてきたものでもある。

もちろん、そこにいる人たちも笑うし、からかうし、盛り上げる。
でも、それはその場の作法の中で成立している。

それを「俺、モテたんだよね」と外側の番組空間に持ち出したとき、内輪の欲望が、本人の承認欲求やトークの素材として可視化されてしまう。
秘密基地に土足で踏み込まれ、大切にしていた箱の中身を広場に並べられるような感覚がある。
悪意があったというより、無自覚だからこそ起きてしまう乱暴さなのだと思う。

三つ目は、ゲイバーという場の歴史や技術が、「俺がモテた場所」に縮減されてしまう悔しさである。

ゲイバーのママたちの接客は、一朝一夕のものではない。
過去の偏見、時代の生きづらさ、コミュニティの歴史という分厚い地層の上に成り立っている。
客の熟度を見極め、踏み込みすぎず、引きすぎず、絶妙な距離感で楽しませる。
そこには、長い時間の中で磨かれてきたプロの技術がある。

動画の語りからは、その場の歴史やママたちの手腕よりも、「自分がどう見られたか」が前面に出ているように感じた。
見た目でキャーキャー言われた。
タンクトップになったら盛り上がった。
有名人が来ていると噂になって人が集まった。

そう語られると、ママたちや客たちは、彼のモテ体験を彩る背景になってしまう。
他者が血肉を削って築き上げた文化が、自分の承認欲求を満たす鏡として消費されてしまったように見える。

本当は、ママたちはすべてを見透かしたうえで、彼を「気持ちよく遊ばせて」くれたのかもしれない。
相手に理解を強いず、説教もせず、その人がその夜に受け取れる最大限度まで楽しませる。
その大人の手腕に気づかないまま、「自分はモテた」という武勇伝として持ち帰ってしまったのだとしたら、そこには少し痛々しさがある。

そして四つ目。
これが一番残酷なのだと思う。

ノンケ男性という「酸っぱいブドウ」を、本人がこちらの前で揺らしてしまったことだ。

ノンケ男性は、男性同性愛者にとって、もともと酸っぱいブドウのような存在になりやすい。
魅力的に見える。
でも、基本的には手に入らない。
異性愛社会の本線にいて、女性と恋愛し、結婚し、家庭を持つ側の人である。

だから、こちらは少し遠くから眺める。
「どうせノンケだ」と諦めながらも、少しだけ余白を楽しむ。
「もしかしたら」と思いながら、「いや、ないだろう」と自分で打ち消す。
そこには、切なくもデリケートなファンタジーの結界がある。

その結界は、本人が無自覚だから保たれているところがある。
本人がこちらの欲望を知らない。
あるいは、知っていても語らない。
その距離があるからこそ、こちらは勝手に夢を見ることができる。

けれど、本人がその視線を自覚し、自分から取りに行き、タンクトップになり、反応を確認し、それを番組で語ったように見えたとき、ファンタジーの質が変わってしまう。

こちらから見ると、ショーケースの中の酸っぱいブドウが、自ら身を乗り出して、
「こういうの好きなんでしょ?」
と揺れているようにも見える。

それは、無邪気なモテ自慢というより、ファンタジーの搾取に近く感じられた。

ファンタジーは、本人が自覚し、説明し始めた瞬間に商品になる。
商品になった瞬間に、信仰ではなくなる。

彼は「隠れた名店」から、「SNSで話題の店」へと、自ら看板を掛け替えてしまったように見えた。
味が完全に失われたわけではない。
魅力が消えたわけでもない。
でも、希少性や神秘性や、内輪でひそかに愛でる余白は、かなり失われてしまった。

無邪気さや善意があれば、他者の切実な祈りや地層を踏み荒らしてもいいわけではない。
記号として愛されることには、それを壊さないための倫理と条件がある。

酸っぱいブドウは、本人が揺らしてはいけないのだ。

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