今日は、何気なく見かけたエックスのポストから、いろいろと考えが広がった。
同窓会に子どもを連れてきたいという友人と、それを断る幹事の話。
一見すると、「子どもを連れてきていいかどうか」という単純な話に見えるけれど、実際はもっと複雑で、「見えない負担を誰が引き受けるのか」という話だった。
子どもがいると、その場の会話の軸が少しズレる。
誰かが気を遣い、誰かが会話を止める。
でも、その負担は見えないし、言いにくい。
だから、「別にいいじゃん」という言葉で流される。
その裏で、確かに何かが削られている。
こういう話を見ていると、
社会には「これが正しい」という枠組みがあって、その枠の中にいる人ほど、それ以外の視点に気づきにくいのかもしれないと思う。
子どもは大切にされるべきだし、配慮されるべき存在だ。
それは社会としては正しい。
でも、その正しさが、そのまま個人の場に持ち込まれたときに、負担が発生することもある。
そのズレが見えないまま、「正しいこと」として押し通されると、違和感が生まれる。
ふと、性別や性の話にも似ていると思った。
人間は本来、グラデーションの存在で、正規分布のように広がっているのに、社会はその中の「一点」を正解として固定しがちだ。
その一点に近い人は、少しだけ無理をすれば合わせられる。
でも、そこから離れるほど、その無理は大きくなる。
50点が正解だとしたら、51点の人は1点分の我慢、
30点の人は20点分の我慢をしながら生きることになる。
そして、51点の人は「まあこのくらいなら」と、50点のふりをして生きる。
そうやって、20点から80点くらいの人たちが、何食わぬ顔で「正解」の中に収まっていく。
その結果、0点や100点に近い人たちが、ズレた存在として扱われる。
でも、その「正解」の中にいる人たち自身も、本当は少しずつ無理をしているのではないかと思う。
「異性愛が正しい」という枠組みも、同じようなものかもしれない。
同性愛の人を認めることは、その人たちのためだけではなくて、
実は、異性愛の人たち自身が、無理をしなくてよくなることにもつながる。
本当は一人が好きな人や、家庭を持つことに向いていない人が、
「正しい人生」に合わせるために、自分を曲げなくてもよくなる。
そう考えると、「例外を認めること」は、全体の自由度を上げることでもある。
ただ、こういう話が議論になるとき、いつも少しズレている気がする。
個人の感情と、社会のルールが混ざってしまう。
個人としては、何を感じても自由だ。
嫌悪感を持ってもいいし、理解できなくてもいい。
でも、社会としては、他人を攻撃しない、押し付けない、というルールがある。
このレイヤーが混ざったまま話されると、
感情と正義がぶつかり合うだけになってしまう。
そして、その衝突の中にも、二種類あるように思う。
現実の中で起きる、意味のある衝突。
そして、情報だけで増幅される、意味のない衝突。
実際に誰かと関わって感じる違和感や怒りは、ちゃんと手応えがある。
それに対して、ネットで見た情報に反応して生まれる怒りは、現実とつながっていないことが多い。
ただ、意味のない衝突も、完全に無駄ではないのかもしれない。
頭の中で反芻したり、シミュレーションしたりすることで、
現実の出来事をどう受け止めるかが変わる。
人間は、ただ反射で生きているわけではなく、
そのあいだに、少しだけ考える時間がある。
そう考えると、衝突そのものに善悪はないのかもしれない。
ただ、それがどこに接続しているかだけが重要で、
現実に返ってくる衝突は、たとえしんどくても意味がある。
今日の話をしていて思ったのは、
やっぱり自分は「手応えのある世界」にいたいんだなということだった。
誰かと深くぶつかり合うことは、もうあまり望んでいない。
でも、完全に閉じてしまいたいわけでもない。
こうして言葉にして、
誰に読まれるかも分からない場所に置いておく。
それでも、どこかで誰かに届くかもしれない。
正しさで押し通す世界よりも、
少しズレながら、でもちゃんと応答が返ってくる世界の方が、
自分には合っている気がする。
今日は、そんなことを考えた。

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