第1回 生活の中の小さな真実
雑栗わかる氏の思想や、オンクリマルシェのような場に対して、私は長い時間、引っかかりを覚えてきた。
「ワクワクに従う」
「自分軸で生きる」
「脱ピラミッド」
「お金ではなく、信頼とエネルギーの循環で生きる」
そうした言葉は、たしかに魅力的である。
会社、学校、世間体、親の期待、競争、評価、収入、肩書き。そうしたものに押しつぶされそうになっている人にとって、「あなたはもっと自分の感覚を信じていい」「好きなことをしていい」「世間の正解から降りていい」という言葉は、救いになることがある。
それは否定しない。
むしろ、私にもよく分かる。
人は、いつのまにか自分の感覚を見失う。
「本当は何がしたいのか」よりも、「何をすれば評価されるのか」を考えるようになる。
「何が好きか」よりも、「何が損をしないか」で選ぶようになる。
気づけば、自分の人生を生きているのか、社会の要求を処理しているのか、分からなくなる。
だから、「ワクワクに従え」という言葉には、たしかに力がある。
それは、眠っていた感覚を呼び戻す言葉である。
固くなった心を少しほぐす言葉である。
「私は、私の感じ方を信じてもいいのかもしれない」と思わせてくれる言葉である。
ただ、私がどうしても引っかかるのは、その先である。
「ワクワクに従うこと」は、生活の知恵としては分かる。
しかし、それが「宇宙の法則」になるとき、私は立ち止まってしまう。
「前向きにしていると、いいことがある」
「感謝していると、世界の見え方が変わる」
「好きなことをしていると、エネルギーが湧いてくる」
ここまでは分かる。
けれど、そこから一気に、
「だから宇宙はワクワクに従うようにできている」
「思考が現実を創造している」
「あなたの人生は魂が選んできた」
「お金や組織や行政やインフラは、古いピラミッド社会の仕組みである」
と言われると、急に足元が怪しくなる。
それは、本当に同じ話なのだろうか。
私はまず、スピリチュアルの中にある「小さな真実」と、それを宇宙全体へ拡張した「万能理論」を分けて考えたい。
たとえば、笑顔でいた方が、人間関係は少しよくなる。
これは、おそらく多くの人が実感として知っている。いつも不機嫌そうな顔をしている人より、穏やかに微笑んでいる人の方が話しかけやすい。こちらが笑顔であれば、相手も安心しやすい。会話の入口が柔らかくなる。場の空気も少し変わる。
だから、「笑顔でいるといいことがある」は、生活の知恵としてかなり本当である。
また、部屋を片付けると、心も少し整う。
机の上が荒れていると、頭の中も散らかっているような気がする。床に物が散らばり、洗濯物が積み上がり、流しに食器が残っていると、なぜか自分自身まで濁っていくように感じる。逆に、部屋を掃除し、窓を開け、空気を入れ替えると、それだけで少し呼吸が深くなる。
だから、「空間を整えると、自分も整う」は、これもまた小さな真実である。
植物を育てると心が落ち着く。
人にありがとうと言うと、関係が少し柔らかくなる。
悪口ばかり言っていると、自分の中も荒れてくる。
好きなことに触れると、体の奥から少し力が戻ってくる。
朝日を浴びると、昨日より生きられる気がする。
こうしたことは、誰かに教義として教えられなくても、多くの人がなんとなく知っている。
それは、宗教というほど大げさなものではない。
心理学というほど専門的なものでもない。
道徳というほど堅苦しいものでもない。
ただ、暮らしているうちに身体が覚えた、ささやかな知恵である。
そして、私はここにこそ、スピリチュアルが人を惹きつける入口があると思っている。
スピリチュアルは、まったくの虚構から始まるわけではない。
むしろ、多くの場合、入口には本物の手触りがある。
前向きにしていたら、たまたまいい出会いがあった。
好きなことを始めたら、思いがけず人とつながった。
嫌な場所から離れたら、体調が少しよくなった。
感謝を意識したら、毎日の景色が少し違って見えた。
そういう経験は、誰にでも少しはある。
それを「波動が上がった」と呼ぶ人もいる。
「エネルギーが整った」と呼ぶ人もいる。
「宇宙の流れに乗った」と呼ぶ人もいる。
「魂の声に従った」と呼ぶ人もいる。
言い方は何でもいい。
その人が自分の人生を立て直すために、そういう言葉を使うこと自体は、悪いことではない。むしろ、その言葉によって、もう一度立ち上がれる人もいるのだと思う。
人は、ただ事実だけでは生きられない。
苦しい出来事があったとき、それを「ただの不運だった」「ただ傷ついただけだった」と思うのはつらい。だから人は、その出来事に意味を見出そうとする。「この経験にも、何か意味があったのかもしれない」「この苦しみを通して、自分は何かを学ぶのかもしれない」と思いたくなる。
それは弱さでもあるが、同時に祈りでもある。
私は、その祈りまで否定したいわけではない。
むしろ、人間が生きるためには、そうした仮の意味が必要なのだと思う。
ただし、その仮の意味を、他人に押しつけ始めた瞬間に、話は変わる。
自分が苦しみを抱えるために「これは魂が選んだ経験なのかもしれない」と思うのは、その人の自由である。
しかし、他人の事故、貧困、病気、虐待、労働搾取に対して、「それはあなたの魂が選んだことです」と言うなら、それはもはや祈りではない。
それは、他人の苦しみを説明し尽くそうとする暴力になりうる。
同じように、「笑顔でいると人間関係がよくなる」は、生活の知恵である。
しかし、「だから笑顔でいないあなたの現実は、あなたの波動が引き寄せたものです」と言われたら、急に残酷になる。
「部屋を整えると心も整う」は、生活の真実である。
しかし、「あなたの病気や貧困や孤独は、あなたのエネルギーが乱れているからです」と言われたら、それは現実の複雑さを消してしまう。
ここに、大きな分かれ道がある。
生活の中の小さな真実は、人を支える。
しかし、それを世界全体を説明する万能理論にしてしまうと、人を追い詰めることがある。
この構造は、日本人の「無宗教」という感覚にもつながっている。
日本人はよく、自分たちは無宗教だと言う。
たしかに、特定の教義を日常的に信じている人は、そこまで多くないのかもしれない。毎週決まった礼拝に行くわけでもなく、神の存在を明確に信じていると宣言するわけでもない。正月には神社へ行き、葬式では仏教式で弔い、クリスマスにはケーキを食べる。外から見れば、かなり曖昧で、いい加減にも見える。
けれど、本当に何もないのだろうか。
たとえば、お地蔵さんに供えてあるものを盗むこと。
神社に落書きすること。
鳥居を壊すこと。
事故で亡くなった人への道路脇の献花を蹴飛ばすこと。
こうした行為に対して、多くの人は強い嫌悪感を覚える。
それは単に、「器物損壊だから悪い」とか「窃盗だから悪い」というだけではない。もっと手前に、「そこは触れてはいけない場所だ」「それを粗末に扱うのは、人として一線を越えている」という感覚がある。
暴力団、不良、ヤンキー、反社会的な人々でさえ、すべてを平気で踏みにじるわけではない。もちろん例外はある。しかし、多くの場合、その人たちなりの禁忌や筋や畏れがある。
墓を荒らすな。
死者を侮辱するな。
世話になった人には筋を通せ。
弱い者に手を出すのはみっともない。
神社仏閣を汚すのは、さすがに気味が悪い。
これは、法律以前の感覚である。
ホテルの部屋だから、いくら汚してもいい。
スタジアムの座席だから、ゴミを置きっぱなしにしていい。
公共の場所だから、自分だけが使えればいい。
そういう考え方は、まったく存在しないわけではない。しかし、多くの人はどこかで「使わせてもらった場所は、最低限整えるものだ」と感じている。サッカースタジアムでゴミを持ち帰る姿が称賛されるのも、そこに「きれいに使う」「場を汚さない」「次の人のことを考える」という生活態度が表れているからだ。
これは、宗教ではないのか。
少なくとも、宗教的なものが生活の中に沈殿した姿ではあると思う。
神がいるかどうかは分からない。
けれど、神がいるかもしれないほどには、世界を粗末に扱わない。
死者が本当に見ているかどうかは分からない。
けれど、死者の前では、少し姿勢を正す。
山や川や木や石に人格的な神が宿っているかどうかは分からない。
けれど、それらをただの物体として乱暴に扱うのは、何かが違う。
この「何かが違う」という感覚こそ、生活に溶けた宗教性なのだと思う。
八百万の神という考え方は、ここでとても柔らかく機能する。
それは、「この神を信じなさい」「この教義に従いなさい」というよりも、「あらゆるものを、ただのモノとして扱い切らない」という態度に近い。
何にでも神様がいる。
ということは、逆に言えば、特別な一つの神だけが世界を支配しているわけではないとも言える。
また、神様が本当にいるかどうか分からなくても、神様がいるかもしれないものとして扱う余地がある、ということでもある。
ここでは、「神がいるかどうか」という命題が、そこまで重要ではない。
重要なのは、世界を粗末に扱わない所作である。
この意味で、日本人は無宗教なのではなく、宗教が生活態度の奥まで溶け込んで、名前を失っているのかもしれない。
「いただきます」と言う。
食べ物を粗末にすると、なんとなく嫌な気持ちになる。
墓参りで手を合わせる。
古い木を切るときに、少し畏れを感じる。
正月には神社へ行く。
事故現場の花を見ると、少し心が静かになる。
それらは、教義としての宗教ではない。
しかし、世界と関係を結ぶための所作である。
雑栗わかる氏のようなスピリチュアルが人を惹きつけるのは、たぶん、こうした生活に沈んだ宗教感覚に、もう一度名前を与えてくれるからだ。
「なんとなく前向きにしていた方がいい気がする」
「感謝していた方が、自分の心が軽くなる」
「好きなことをしていると、生き返る感じがする」
「嫌なことばかりしていると、魂が濁る気がする」
そういう、心の中でひそかに持っていた小さな実感を、
「それはワクワクです」
「それは魂の声です」
「それはエネルギーです」
「それは宇宙の流れです」
と言語化してくれる。
その瞬間、人は救われたように感じるのだと思う。
自分だけがぼんやり感じていたことに、言葉が与えられる。
自分だけの秘密の心がけが、肯定されたように感じる。
世界の見方が、少し明るくなる。
だから、私はスピリチュアルを単純に笑うことはできない。
そこには、確かに人間の弱さと祈りがある。
生活の中で積み重ねられてきた、小さな真実がある。
名前を失った宗教感覚に、もう一度名前を与える力がある。
ただし、繰り返すが、問題はその先である。
生活の中の小さな真実だったものが、世界全体を説明する万能理論になるとき。
祈りだったものが、他人を黙らせる教義になるとき。
心がけだったものが、宇宙の絶対法則になるとき。
そこから、スピリチュアルは人を支えるものから、人を縛るものへと変わっていく。
私は、その境界線を見たい。
雑栗わかる氏の思想への違和感も、結局はここにある。
「ワクワク」は、確かに大切だ。
「感謝」も、「前向きさ」も、「自分の感覚を信じること」も大切だ。
しかし、それはどこまで言えるのか。
どこから言いすぎになるのか。
どこから、社会の現実や他人の苦しみを見えなくするのか。
このエッセイでは、その境界線をたどっていきたい。
まず確認しておきたいのは、こういうことだ。
心がけとしては本当である。
祈りとしては有効である。
自分を支える物語としては尊い。
しかし、宇宙法則としては未確定である。
社会論としては不十分である。
他人に押しつければ、暴力になりうる。
この線引きから、話を始めたい。

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