DIE WITH 0(=LOVE)一万ドルを使わなかった祖母の、セーター一枚ぶんの答え

この物語について

この物語は、ビル・パーキンス著『DIE WITH ZERO』に登場する、著者と祖母のエピソードから想像したフィクションです。

当時のビルは二十代後半で、後に巨万の富を築くことになるトレーダーとして、成功し始めた頃でした。その彼が、七十代後半の祖母へ一万ドルの小切手を贈ります。しかし祖母は、そのお金をほとんど自分のために使わず、ビルへのクリスマスプレゼントとして、五十ドルほどと思われるセーターを買っただけでした。

ビルは後年、この出来事を振り返り、年を取った祖母は、お金を楽しい経験へ変える力を失っていたのだと考えます。そして、現金ではなく、親戚を訪ねる旅行のような具体的な経験を贈るべきだったと書いています。

また本書には、祖母が自宅のソファーをビニールで覆い、葬儀などの特別なときだけ外していたという話も出てきます。ビルはそれを、楽しみを先延ばしにし、物を十分に使わない生き方の象徴として描きました。

けれど、祖母は本当に、お金の使い方も人生の楽しみ方も分からなくなっていたのでしょうか。

なぜ祖母は、一万ドルをすべて残すのでも、すべて自分のために使うのでもなく、その中から一着のセーターを選び、ビルへ贈ったのでしょう。

祖母自身の気持ちは、もう確かめることができません。この物語は、残されたわずかな事実の隙間に、祖母にも祖母なりの暮らしの哲学と、孫への愛情があったのではないかと想像して書いたものです。

史実の再現ではありません。

ビルが語らなかった祖母の一人称から、同じ出来事をもう一度眺め直すための、小さな寓話です。


DIE WITH 0(=LOVE)
一万ドルを使わなかった祖母の、セーター一枚ぶんの答え

孫のビルから小切手が届いた。

一万ドル。

封筒から取り出して眺めても、その紙は少しも重くなかった。
けれど膝の上に置くと、どういうわけか、ずいぶん重たいものに感じられた。

ビルは、まだ二十代の終わりだった。
お金の値段が上がったり下がったりするのを読み、その差から利益を得る仕事で、ようやく成功し始めたところだった。

私には、あの子が毎日どれほど大きなお金を動かしているのか、よく分からなかった。
ただ、一万ドルという金額に、あの子が自分の成功を込めていることだけは分かった。

「お母さん、何に使うの?」

娘が聞いた。

私は小切手を封筒へ戻し、本の間に挟んだ。

「さあね。まだ決めていないわ」

本当は、決められなかったのではない。

欲しいものが、思いつかなかったのだ。

この家には、眠るためのベッドがある。
紅茶を淹れるためのポットがある。
窓辺には、本を読む場所がある。

居間には、夫がずっと昔に買ってくれたソファーがあった。

私は、そのソファーにビニールをかけていた。

夏には少し肌に張りつくし、冬には冷たい。
ビルは昔から、あのビニールを嫌っていた。

「おばあちゃん、これじゃ座りにくいよ」

幼いビルは、そう言って頬を膨らませた。

私は笑って答えた。

「大切なものは、長く大切に使うのよ」

夫は、もういない。

けれど、ソファーは今も同じ場所にある。

ビニール越しに手を置けば、夫と家具屋へ出かけた日のことを思い出す。

ひと目で気に入ったソファーがあった。
けれど値札を見て私は、隣にあった少し安いものを指した。

「これにしましょう」

夫は「そうだね」とうなずいた。
それから店員を呼ぶと、私が最初に見ていたほうを頼んだ。

私が目を丸くすると、夫は笑った。

「家族みんなで、長く使うものだから」

あの日のうれしさは忘れられない。

だから私は、そのソファーを大切にしてきた。
あの人の言葉どおり、家族みんなで、できるだけ長く使いたかったからだ。

子どもが座った。
孫がその上で眠った。
夫がいなくなったあとも、家族が訪れれば、誰かがそこへ腰を下ろした。

ビルには、ただの古いソファーに見えただろう。

けれど私には、その同じ場所に、いくつもの時間が折り重なって見えた。

本も、歳を重ねてから読み返すと、以前とは違う物語に見えることがある。

若い頃には、旅へ出る主人公のことばかり見ていた。
歳を取ると、戸口でその背中を見送る人のことが気にかかる。

書かれている言葉は同じでも、それを読む私が変わったのだ。

けれど私の目には、今のビルの中にも、昔のあの子が重なって見えた。

小さかった頃のビル。
負けると悔しくて、勝つまで何度もやり直したビル。
大きくなり、お金を右へ動かし、左へ動かし、その動きから、また大きなお金を作る仕事に就いたビル。

私は、あの仕事をよく理解できなかった。

値段が上がる。
値段が下がる。
誰かが得をして、誰かが損をする。

そんな世界で、あの子は毎日、何を見ているのだろう。

一万ドルの小切手は、ビルの成功の証しだったのだと思う。

「おばあちゃん、僕はこんなに立派になったよ」

あの子は、そう言いたかったのかもしれない。

けれど私は、そのお金で新しい家具を買おうとは思わなかった。
旅行へ行きたいとも思わなかった。

旅行が嫌いだったわけではない。

ただ、ビルのお金を使って、別の人間になりたいとは思わなかった。

私は、この部屋で本を読みたかった。
同じポットで紅茶を淹れたかった。
夫と選んだソファーを、明日も同じ場所で見たかった。

それが私の暮らしだった。

一万ドルを足したからといって、もっと私らしくなるものではなかった。

クリスマスが近づいた頃、私は町の店で一枚のセーターを見つけた。

派手ではない。
値段も高くない。

けれど、寒い日に着るにはよさそうだった。

あの子は大人になっても、忙しくなると身体のことを忘れる。
勝つことや、先のことばかり考えて、目の前の寒さに気づかない。

私は、そのセーターを買った。

一万ドルのうちの、ほんのわずかだった。

ビルは、残りのお金をなぜ使わなかったのか、不思議に思うかもしれない。

老人になって、楽しみ方が分からなくなったと思うかもしれない。

けれど、そうではない。

私は、あの小切手を拒んだのではなかった。
ビルを拒んだのでもなかった。

ただ、お金とビルを、別々に受け取りたかったのだ。

あなたの仕事を、私はよく分かりません。
あなたの生き方を、すべて正しいとも思いません。

それでも、あなたが選んだ道を歩いていくのなら、どうか寒い思いをしませんように。

無理をしすぎませんように。

大きなお金を失う日が来ても、自分まで失ったと思いませんように。

そんなことを、セーター一枚に込めた。

もちろん、言葉にはしなかった。

ビルは包みを開け、セーターを広げた。

「ありがとう、おばあちゃん」

一瞬、子どもの頃のような屈託のない笑顔を見せた。
けれど、心はどこか遠くの市場に残っているようだった。

私は、あの子の中で、一万ドルの話がまだ終わっていないことを知っていた。

それでもよかった。

あとになってビルは、一万ドルから生まれたものは、五十ドルほどのセーターだけだったと語るかもしれない。

けれど私は思う。

あの小切手を使うことは、私には、あの子の仕事までよいものだと認めることのように思えた。

それはできなかった。

けれど、その仕事に身を削り、自分の道を懸命に歩くビルまで、否定したかったわけではない。

私は、あの子の仕事を認めることはできなかった。
それでも、あの子の頑張りは応援したかった。

だから私は、小切手には手をつけず、セーターを一枚、あの子へ贈ったのだ。

私は、ビルのお金を使えなかったのではない。

使わなくても、ビルを愛することができた。

その冬も、私はビニールのかかったソファーに座った。

窓辺で本を開き、紅茶を飲んだ。

ビルがあのセーターを着る日は、来ないかもしれない。

それでも、私は十分に幸せだった。

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