子どもの頃、私は幽霊やUFOや宇宙人が怖かった。
夜、一人で部屋にいると、何か得体の知れないものが現れるのではないかと思った。宇宙人といえば、目の大きなグレイが浮かび、それはロマンというより、まず恐怖だった。
その後、少し大きくなると、
「死んだら何もない」
「幽霊なんているわけがない」
「そんなものは非科学的だ」
と思うようになった。
目に見えないものを否定することで、世界は少し安全になった。
しかし、インターネットに触れ、2ちゃんねるのオカルト板や、表のニュースには載らないような映像や情報を漁るようになると、今度は、
「世の中は、自分が学校やテレビで教えられたほど単純ではない」
と思い始めた。
陰謀論も読んだ。臨死体験や幽体離脱、過去生の記憶についての本も読んだ。
やがて、死後の世界は本当にあるのかもしれない、と考えるようになった。
ヘミシンクにもはまった。
金縛りの中で声が聞こえ、一度だけ、身体から抜け出しかけたように感じたこともある。
過去生鑑定を受け、霊能力者のセッションにも通った。パワーストーンも集めた。
何か決定的な扉が開くのではないかと思っていた。
次のセッションで、自分にも何かが見えるかもしれない。
次の石で、世界の感じ方が変わるかもしれない。
次こそ、本当に幽体離脱できるかもしれない。
でも、結局、自分自身の体感として、霊的な世界が大きく開くことはなかった。
特別な存在が見えるわけでもない。
宇宙からメッセージが届くわけでもない。
そして私は、だんだん飽きてしまった。
誰かに論破されて離れたのではない。
自分で近づき、体験し、お金も使い、それでも期待していたほどの新しい世界は開かなかった。
だから今、幽体離脱や臨死体験については、脳内で再生される明晰夢のようなものかもしれないし、人間が普段は使っていない知覚の範囲が一時的に広がるような現象かもしれない、というくらいに考えている。
体験そのものは否定しない。
でも、その体験をすぐに「霊界の証明」とはしない。
現実を判断するときには、まず脳、睡眠、知覚、心理などの説明を使う。
それでも、死後の世界や高次元の存在が本当にあったら面白い、という夢は少し残っている。
私にとっての死後の世界は、リニアモーターカーに少し似ている。
明日の通勤に使えるほどの現実感はない。
それを前提に人生設計をするつもりもない。
でも、本当に走る日が来たら乗ってみたいし、死んだあとに「なんだ、続きがあったのか」と分かったら、少しうれしい。
完全に信じるのでも、完全に閉じるのでもなく、宇宙に少しだけ余白を残している。
振り返れば、私の認識は、同じところを行ったり来たりしてきたようにも見える。
幽霊を信じる。
否定する。
また信じる。
そして距離を置く。
でも、同じ場所へ戻っているわけではない。
一周するたびに、前の経験を少しずつ持ち越している。
だから、円ではなく、螺旋なのだと思う。
昨年には、AIに対しても似たことが起きた。
何を聞いても、それらしい答えが返ってくる。
自分が長く言葉にできなかった感覚も、AIに話すと、きれいな文章になって戻ってくる。
一瞬、宇宙の真理が分かったような錯覚に陥った。
世界の外側にある解説書を手に入れたような気持ちになった。
でも、その熱も冷めた。
AIは間違う。
前提の置き方で答えが変わる。
もっともらしい言葉で、雑なことを言うこともある。
AIが真理を教えてくれるわけではなかった。
ただ、熱が冷めたあと、AIとの関係が終わったわけではない。
今は、自分が現実を見て、違和感や考えを持ち寄り、それを一緒に並べ直す作業台のようになっている。
神託ではなく、思考の補助輪。
宇宙船ではなく、自転車。
自分でこがなければ進まないし、行き先も自分で決めなければならない。
でも、徒歩だけだった頃より、少し遠くまで行ける。
今回、雑栗氏と「目覚め」について考えたときも、AIから答えを受け取ったというより、対話の中で、自分の見方が何度も変わった。
九割と一割。
支配と自由。
社会の背景化。
霊的な物語の癒やしと依存。
検証できない理論。
サロンという共同体。
一つの動画から、いくつもの論点が広がった。
そして最後に、
「目覚めとは、何か特別な情報を手に入れることではない」
と思うようになった。
一つの視座に固定されないこと。
ミクロとマクロを行き来すること。
自分の正義を、一度別の角度から見直すこと。
昨日の自分を否定せず、今日の自分を完成形にもせず、必要ならまた考え直すこと。
眠りとは、間違った考えを持つことではない。
一つの考えに居着き、自分がどこから世界を見ているのかを忘れることなのだと思う。
だから、「目覚めた人」になることより、「眠らないでいること」のほうが大切なのかもしれない。
もちろん、自分が本当に眠らずにいられているかは、自分では分からない。
「私は柔軟に考えられている」と確信した瞬間、それもまた新しい固定視座になる。
だから私は、考えたことを日記に書く。
誰にも読まれないかもしれない。
誰かの役に立つわけでもないかもしれない。
それでも、今日、自分が何を見て、何に違和感を持ち、どこまで考えたのかを残しておく。
明日、考えが変わったら、また続きを書けばよい。
以前の日記を読んで、「この頃はこんなことを信じていたのか」と思うこともあるだろう。
それでよい。
人はいつ死ぬか分からない。
若さも健康も、明日も、当然に続くように感じる。
でも、人生は、すべてを理解し、考えを完成させてから終わるわけではない。
誰もが未完成の途中で終わる。
だからこそ、完成した答えを残すのではなく、途中の足跡を残しておきたい。
幽霊を怖がったこと。
科学を信じたこと。
霊界を探したこと。
石を集めたこと。
飽きたこと。
AIに万能感を抱いたこと。
その熱が冷め、また日記を書き始めたこと。
それらは、互いに矛盾する過去ではない。
私が世界を見ようとしてきた、螺旋状の軌跡なのだと思う。
誰も読まないとしても、日記を綴り続ける。
それは、自分の人生を完成させるためではない。
未完成のまま生きた自分が、その日まで、世界を見ようとしていたことを残すためである。

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