雑栗氏と、絶対に覚醒させるマン・あきさんの動画から、ずいぶん多くのことを考えた。
支配者に誘導されている九割と、そこから目覚めた一割。
最初に聞いたときは、分かりやすい話だと思った。
世の中に違和感を持ち、周囲と違うことを考えてきた人にとって、「あなたは眠っている九割とは違います」と言われることには、きっと救いもある。
自分が生きづらかったのは、能力がなかったからではない。
多数派に合わせられなかったのは、自分が未熟だったからではない。
むしろ、支配の仕組みに気づき始めていたからなのだ。
そう言われたら、少し自信を取り戻せるかもしれない。
でも、考え続けているうちに、「目覚める」とは、何か特別な秘密を教えてもらうことではないような気がしてきた。
過去生を知ることでも、アカシックレコードへアクセスすることでも、世界を操る支配者の存在に気づくことでもない。
自分が今、何を見ていて、何を見落としているのか。
できるだけ偏りなく、広い視野で、しかも一つ一つを解像度高く見ようとすること。
それが目覚めるということなのではないだろうか。
一人の苦しみへ近づけば、社会の規則に適応できない、その人なりの事情が見える。
少し離れて社会全体を見れば、多くの人が共に暮らすために、規則や分業が必要なことも見える。
さらに近づけば、その規則を毎日維持している人の労働が見える。
また離れれば、その労働によって、私たちの自由な時間が生まれていることが分かる。
ミクロとマクロを何度も往復する。
自分の立場から見えるものを大切にしながら、それを世界全体の真実だとは思わない。
他人の事情を想像しながら、何でも「人それぞれ」で済ませて、判断を放棄するわけでもない。
今の自分に見える範囲で、できるだけ誠実に考える。
そして、明日、別のものが見えたら、昨日の考えを修正する。
それは地味である。
一度目覚めたら、もう二度と眠らないというものでもない。
疲れていれば、視野は狭くなる。
腹を立てれば、相手を雑に決めつける。
自分に都合のよい説明だけを信じたくなることもある。
そして、しばらくしてから、
「あの人にも事情があったのかもしれない」
「自分の見方も一面的だったかもしれない」
と考え直す。
また目を開け直す。
本当の目覚めとは、眠らなくなることではなく、眠りかけるたびに、何度でも目を開け直すことなのかもしれない。
そう考えると、世界は、眠った九割と目覚めた一割に分かれているわけではない。
誰もが、日々の生活におぼれ、視野を狭くし、間違え、ときには腐りそうになりながら、それでも完全には諦めずに生きている。
家族のために働く人がいる。
誰にも評価されない設備を点検する人がいる。
昨日より少しだけ、人に優しくしようとする人がいる。
失敗したあと、同じことを繰り返さないように考える人がいる。
そこに、宇宙の秘密を知ったような華やかさはない。
でも、そうした一歩一歩によって、社会は何とか壊れずに続いている。
特別な情報を得て、自分を選ばれた側へ置くことではない。
分からないものを分からないままにせず、しかし分かったつもりにもならず、昨日より少し丁寧に世界を見ようとすること。
目覚めとは、限られた自分の目で、それでも真摯に世界を見定めようとする姿勢のことなのだと思う。

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