先ほど書いた日記に、私は、
「子どもの頃、私は幽霊やUFOや宇宙人が怖かった。」
というタイトルをつけた。
文章の内容を要約するなら、もっと適切なタイトルはいくらでもある。
スピリチュアルとの距離の変化。
認識の螺旋。
AIへの期待と冷却。
日記を書くことの意味。
死ぬまで未完成であること。
文章には、そういうことが書かれている。
だからAIは、
「螺旋を描きながら、眠らないでいる」
というタイトルを考えた。
内容としては正しい。
むしろ、文章全体を公平に眺めれば、私がつけたタイトルより、AI案のほうが論旨を正確に表しているのかもしれない。
しかし、私はそれをタイトルにしたいとは思わなかった。
なぜなら、私がこの文章を書きたいと思った場所は、「認識とは螺旋状に発展する」という抽象的な結論ではなかったからだ。
出発点にあったのは、子どもの頃の、あの怖さだった。
夜、一人でいると、見えない何かが近くにいるような気がした。
幽霊が怖かった。
UFOに連れ去られることが怖かった。
目の大きなグレイが、暗い部屋の隅に立っていたらどうしようと思った。
大人になった私は、幽霊や宇宙人を、子どもの頃と同じようには信じていない。
金縛りや幽体離脱のような体験も、脳や睡眠の働きとして理解できるのではないかと思っている。
霊能力者のセッションを受け、パワーストーンを集めた時期もあったけれど、期待していたほどの世界は開かず、やがて飽きてしまった。
それでも、子どもの頃の怖さは、完全に消えたわけではない。
死んだらどうなるのか。
意識は本当にそこで途切れるのか。
この世界は、目に見えているものだけなのか。
分からないものへの恐れと好奇心は、形を変えながら、今もどこかに残っている。
私は同じ問いの周囲を、何度も回ってきたのだと思う。
信じ、否定し、また信じ、近づき、飽き、少し離れた。
一見すると、同じ場所をぐるぐる回っている。
でも、振り返れば、まったく同じところにはいない。
答えが分かったわけではない。
子どもの頃も分からなかったし、今も分からない。
ただ、分からないものとの距離の取り方は、少しずつ変わってきた。
その螺旋状の時間を書きたかった。
そして、人はその螺旋の途中で、いつ死ぬか分からない。
認識を完成させ、すべてに答えを出し、自分の人生をきれいに総括してから死ねるとは限らない。
昨日まで普通に暮らしていた人が、事故や災害で突然いなくなる。
私も、いつか書こうと思っていたことを、書けないまま終わるかもしれない。
だから、誰も読まなくても日記を書く。
今の自分が、どこから世界を見ているのかを残す。
明日には考えが変わってもよい。
過去の日記を読み返して、「この頃は若かったな」と、ほろ苦く思ってもよい。
その変化も含めて、自分が世界を見ようとしてきた跡になる。
そう考えると、
「子どもの頃、私は幽霊やUFOや宇宙人が怖かった。」
というタイトルは、文章の内容を要約してはいない。
AIも、日記も、認識の螺旋も、死の儚さも書かれていない。
でも、それらすべてが生まれた場所を指している。
文章には、何が書かれているかという主題がある。
それとは別に、なぜ、その文章を書かずにはいられなかったのかという動機がある。
よいタイトルは、完成した文章を短く説明するものとは限らない。
ときには、文章を書く前の自分が立っていた、まだ言葉になっていない場所を指し示す。
読み始めたときには、ただの子ども時代の思い出に見える。
しかし、最後まで読んでからタイトルへ戻ると、「怖かった」という言葉の中に、死、不可知、成長、ロマン、そして日記を書くことまでが含まれて見える。
本文を読むことで、タイトルの意味が後から広がる。
タイトルは、文章の要約ではなく、その文章が生まれた場所の名前である。
だから私は、すべてを説明しきった立派な題名より、そこから何かが始まりそうな、少し説明不足の一文を選びたい。
その余白の中に、文章を書く前の私がいるのだと思う。
ちなみに、この記事のタイトルを考えたのは私で、AIは「タイトルは、文章の要約ではなく、その文章が生まれた場所の名前である」というタイトルを生成しました。

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