かぽさんのポストを読んで、少し考え込んでしまった。
長年アメリカに住んでいる人が、アメリカではLGBTのようなカテゴリを示さないと奇異な目で見られる一方、日本ではわざわざカテゴリを主張しなくても、和や場を乱さなければ好きな在り方でいられる、という趣旨の話をしていた、という内容だった。
かぽさん自身は、ことさらに「日本万歳」と言っているわけではない。
ただ、そういう見方があると紹介しているだけだと思う。
けれど、このポストは、日本人にはかなり好意的に受け入れられやすい構造を持っているとも感じた。
なぜなら、そこには、
日本は、アメリカのように何でもカテゴリ化しない。
日本は、わざわざ主張しなくても受け流せる。
日本の方が、精神的に成熟している。
という読み方を誘いやすいものがあるからだ。
もちろん、実際に日本には、いちいち属性を問わない楽さがある。
私自身、現代の日本でゲイとして暮らすことについて、日常生活の範囲では、そこまで大きな苦痛を感じずに過ごせている面がある。
ことを荒立てなければ。
声を大きく上げなければ。
恋愛や家族の話を深掘りされそうな場面を、うまくかわしていれば。
「まあ、そういう人もいるよね」
「別に、迷惑をかけなければいいんじゃない」
という空気は、たしかにある。
けれど、それをそのまま「日本は寛容だ」と言ってよいのか。
私は、そこで引っかかった。
日本では、LGBTであることを言ってはいけないわけではない。
しかし、言った瞬間に、その人はもう以前の「ただの人」ではなくなる。
「ああ、そうなんだ」と表面上は受け止められるかもしれない。
でも、その後の関係が微妙に変わる。
恋愛の話を振られなくなる。
家族の話題で妙に気を遣われる。
冗談の輪から少し外される。
あるいは、「配慮しなければいけない人」「そういう主張をする人」として扱われる。
否定はされない。
でも、元の自然さには戻れない。
つまり、日本のしんどさは、
言ってはいけないこと
ではなく、
言ってしまった人になること
にあるのだと思う。
ここが、アメリカ的なカテゴリ社会のしんどさとは違う。
アメリカでは、カテゴリとして問われすぎる苦しさがあるのだと思う。
あなたは何者か。
どの属性か。
どの権利主体か。
そのように名乗らされる疲れがある。
一方、日本では、名乗らなくて済む。
でも、それは「名乗っても受け止めてもらえる」という意味ではない。
むしろ、
言わない限り、今までどおりに扱ってあげる。
でも、言ったら、こちらも今までどおりではいられない。
という圧がある。
だから、「問われないこと」は、必ずしも寛容ではない。
問われないのは、受け止められているからなのか。
それとも、最初から触れないことにされているからなのか。
あるいは、輪の外に置かれているからなのか。
その違いは、とても大きい。
さらに、同性婚、賃貸での同居、病院の面会、相続、医療同意のような、法的・社会的な場面になると、この「問われない楽さ」は急に頼りなくなる。
日常では、黙っていれば何とかなる。
でも、制度の場面では、黙っていては何も変わらない。
ところが、改善を求めようとしても、どう声を上げればよいのか分からない。
そして、声を上げた瞬間に、「そういう人」というカテゴリに押し込められてしまう感覚がある。
権利を求める人。
面倒なことを言う人。
場を乱す人。
普通にしていればいいのに、わざわざ主張する人。
そう見られるのではないかという感覚がある。
だから結局、声を押し殺して人生をやり過ごすしかないような気持ちになる。
ここに、日本の不寛容さがあるのだと思う。
それは、アメリカ的な露骨なカテゴリ化や対立とは違う。
もっと静かで、もっと礼儀正しい。
「あなたはダメ」とは言わない。
「そういう人もいるよね」と言う。
でも、制度は変わらない。
関係性も引き受けない。
困りごとは、本人が黙って処理するものになる。
この構造は、外から見ると寛容に見えるかもしれない。
特に、もともと日本社会の外側にいる人にとっては、日本は快適に映ることがあると思う。
アメリカ帰りの人。
海外生活の長い人。
少し別世界の人。
個性的な人。
そういう人は、最初から「村の外の人」として扱われる。
だから、細かく問われにくい。
多少違っていても、「まあ、あの人はそういう人だから」で流される。
けれど、それは本当に受け入れられているのだろうか。
もしかするとそれは、承認ではなく、単なる「無視」なのではないか。
包摂された自由ではなく、外側に置かれた自由なのではないか。
村八分という言葉がある。
でも、外側の人は、村八分にされる以前に、最初から村一分くらいの位置に置かれているのかもしれない。
挨拶はされる。
親切にもされる。
でも、中心には入っていない。
「うちの人」としては扱われていない。
その位置にいるかぎり、たしかに自由はある。
でもそれは、内側の人として受け止められた自由ではない。
この構造は、服装の話にも似ている。
女性の服装は男性より自由だ、という見方がある。
たしかに、男性のフォーマルは長く、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、革靴だった。
一方、女性は、ブラウスでも、カーディガンでも、パンツでも、スカートでもよいように見える。
けれど、それは本当に自由なのか。
男性は服装を規則で縛られる。
しかし同時に、スーツという防具を与えられている。
スーツを着れば、とりあえず「ちゃんとした社会人」に見える。
一方、女性は自由に見える。
でもその自由の中には、無数の見えない採点がある。
派手すぎないか。
地味すぎないか。
若作りではないか。
女を出しすぎていないか。
清潔感はあるか。
感じはよいか。
場に合っているか。
男性は型で縛られる。
女性は空気で採点される。
だから、自由に見えるものが、必ずしも自由とは限らない。
それは、中心から外れているがゆえに、明文化されず、自己調整を求められているだけかもしれない。
このことは、LGBTの話にも重なる。
問われない。
でも、受け止められているわけではない。
言わなくて済む。
でも、言った後も同じ関係でいられるわけではない。
好きにしていい。
でも、制度や関係性を変えるほどには引き受けられていない。
私は、かぽさんのポストに反論したかったわけではない。
そこに書かれている感覚には、分かる部分もある。
日本には、日本なりの、荒立てずに共存する知恵がある。
カテゴリ化しすぎないことで、日常が楽になる面もある。
すべてを権利闘争として処理する社会が、いつも生きやすいわけでもない。
ただ、それを「日本は寛容だ」とだけ読んでしまうと、日本にある別の不寛容さが見えなくなる。
声を上げない限り、普通にしていられる。
でも、声を上げた瞬間に、「そういう人」になる。
この圧は、確かに存在する。
私はそのことを、言葉として残しておきたかった。
日本は、カテゴリ化しないから進んでいるのではない。
アメリカは、カテゴリ化するから遅れているのでもない。
ただ、社会が異質なものをどう処理するかの作法が違うのだと思う。
アメリカは、名付けて、制度化して、衝突を可視化する。
日本は、名付けず、空気で処理して、衝突を非可視化する。
どちらにも、楽さがある。
どちらにも、苦しさがある。
そして私は、日本で暮らす者として、日本の楽さだけでなく、日本の苦しさも見ておきたい。
問われないことは、受け止められていることではない。
黙っていられることは、自由であることと同じではない。
ことを荒立てずに生きられることは、声を上げても大丈夫だということではない。
その違いを、なかったことにはしたくない。

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