エックスで、ちょっと面白いというか、考えさせられるポストを見た。
ざっくり言うと、こんな話である。
母「お茶いれたよ」
娘「お茶入ってないよ。水だったよ」
母親はそれを、娘の「言葉を文字どおり受け取る特性」が出た場面として投稿した。
それに対して、エックス民が反応した。
いやいや、水はお茶じゃないでしょ。
娘さん、普通のこと言ってない?
おかしいのは母親の言い方では?
という流れである。
さらにそこに、砂鉄氏がかなり強い言葉で反応していた。
「娘を擁護している側のほうが、むしろ問題が重いのでは」という趣旨だ。
ただ、私はこの件、最初に見たときから、どうにも引っかかった。
だって、水のことを「お茶」とは、普通は言わない。
居酒屋で、
「お冷ください」
と言えば、水が出てくる。
でも、
「お茶ください」
と言えば、お茶が出てくる。
そこで店員さんが、水を持ってきて、
「お茶どうぞ」
と言ったら、たぶん多くの人は、
「え、水じゃなくて、お茶を頼んだんですけど」
となる。
もちろん、「お茶しよう」とか「お茶でも飲んでいきなさい」みたいな言い方なら、コーヒーでもジュースでも、場合によっては水でも成立するかもしれない。
でも、
「お茶いれたよ」
は、かなり具体的である。
茶葉なり、ティーバッグなり、麦茶パックなり、何かしら「お茶成分」が入っている前提の言葉に聞こえる。
だから、
「お茶入ってないよ。水だったよ」
という娘さんの反応は、かなり自然に見えた。
これは、
母「お風呂沸いたよ」
娘「はーい」
娘、入ろうとする
娘「お風呂、水だったよ」
に近い。
このときの「水だったよ」は、別に「私は水とお湯を厳密に区別する特殊な人間です」という発言ではない。
「お風呂が沸いた」と言われたから、お湯だと思った。
でも実際は水だった。
だから「水だったよ」と言った。
それだけである。
むしろ、娘さんは母親の言葉をいったん信じている。
「お茶」と言われたから、お茶だと思って口をつけた。
でも薄い。というか味がない。
あれ、これ水じゃん。
水出しのお茶パック、入れ忘れてない?
そんな感じで、
「お茶入ってないよ。水だったよ」
と言ったのだと考えると、とても普通に思える。
もちろん、母親側の気持ちも分からなくはない。
この水の話は、母娘の長い生活の中の、たった一場面にすぎない。
普段から、
言葉を少しでも間違えると訂正される。
予定と違うと固まる。
比喩や省略が通じにくい。
訂正しても、なかなか気持ちが切り替わらない。
そういうやりとりが一日中、何年も続いていたのだとしたら、母親にとっては、
「ああ、またこの感じか」
という場面だったのかもしれない。
単発なら、
母「あ、ごめん、水だったわ」
娘「もうー、お茶かと思ったじゃん」
で済む。
でも、それが日々の積み重ねの中で起きたなら、母親がしんどく感じたこと自体は、否定できない。
母親にとって「つらかった」というのは、母親の中の事実である。
ただし、母親がつらかったことと、娘さんの反応が本当におかしかったかどうかは、別の話である。
ここを混ぜると、話がややこしくなる。
母親の感情は本物。
でも、その解釈がいつも正しいとは限らない。
娘さんの発言も、文字だけ見れば普通の訂正に見える。
でも、現場の声色や表情や間、あるいはその後の反復があれば、印象は180度変わるかもしれない。
たとえば、
「お茶入ってないよ。水だったよ」
と一回だけ言ったなら、普通である。
でも、
「水だった。水だった。水だった」
「お茶、お茶、お茶、お茶」
「お茶って言った。水だった。お茶じゃない。水だった」
みたいに止まらなくなったなら、かなり話は変わる。
そこには、単なる事実訂正ではなく、
言葉と現物のズレを処理しきれない。
気持ちの切り替えができない。
不一致が頭の中でループしてしまう。
という特性が見えてくる。
あるいは、私が勝手に作った次のような話ならどうだろう。
母親が、湯呑みに水を入れた。
ついうっかり、「お茶入れたよ」と言ってしまった。
娘「お茶じゃないよ。水だよ」
母「あー、言い間違えた。水いれた」
娘「ねえ、湯呑みにはお茶でしょ?」
母「うん。お茶じゃないけど、それ飲める水だから飲みな」
娘「お茶じゃないと飲めないよね。水はコップでしょう?」
母「……いやなら飲まなくてもいいわよ」
娘「何怒ってるの? 怒りたいのはこっち。なんで湯呑みに水を入れて、しかもお茶って言ったの?」
ここまで来ると、かなり「特性が出ている」という話になるのではないか。
水はお茶ではない、という事実は正しい。
でも、その正しさが、相手の厚意や場の流れよりも上位に来てしまっている。
この場合、母親からすると、
「せっかく飲み物を用意したのに、そこまで責められるの?」
となる。
そこで「感謝がない」と読まれても、ある程度は分かる。
ただし、それも本当は「感謝が心の中にゼロ」というより、
「感謝より先に、形式のズレへの反応が出てしまっている」
ということなのだと思う。
本人の中では、
湯呑みにはお茶。
水はコップ。
お茶と言ったならお茶。
言葉と現物が一致していない。
これはおかしい。
という違和感が強すぎて、まずそこを解決しないと先に進めない。
その結果、周りからは「感謝がない」ように見える。
でも、元の投稿には、そこまでの情報は書かれていない。
書かれていたのは、
「お茶入ってないよ。水だったよ」
だけである。
だから読者が、
「いや、水はお茶じゃないでしょ」
と反応したのは、かなり自然だと思う。
この件の面白さは、たぶんここにある。
母親にとっては、長い文脈の中の「象徴」だった。
でも読者にとっては、その短い文章だけが「証拠」だった。
母親の中には、これまでの無数のやりとりがある。
でもエックス民には、それが見えない。
見えているのは、
母「お茶いれたよ」
実際は水
娘「水だったよ」
という構図だけ。
それなら、娘を擁護する人が出るのは当然である。
そして砂鉄氏は、たぶんそこを、
「親切にしてもらったのに、水かお茶かにこだわる人たち」
として読んだのだと思う。
でも、娘を擁護した人たちは、別に、
「親切に感謝しなくていい」
と言っているわけではない。
ただ、
「この例で娘さんを特性扱いするのは、ちょっと無理がない?」
と言っているだけである。
だから、そこに強い言葉を投げるのは、少し雑だった気がする。
水はお茶ではない。
これは、別に重箱の隅ではない。
かなり普通の区別である。
ただし、その場にいたら、娘さんの言い方や態度で印象は変わったかもしれない。
一回だけの報告だったのか。
何度も反復したのか。
怒っていたのか。
固まっていたのか。
母親の訂正を受け入れられなかったのか。
そこが分からない以上、外野が断定するのは難しい。
結局、この話から私が思ったのは、
「水はお茶ではない」
ということと、
「でも、母親がつらく感じたこともまた事実かもしれない」
ということは、両立するということだ。
そしてもう一つ。
家庭内の長い文脈を、短いポストで代表させるのは、かなり難しい。
親にとっては「またこの感じか」でも、
読者にとっては「いや、それは水でしょ」になる。
たった一杯の水で、ここまで話が広がるのだから、インターネットは本当におそろしい。
いや、正確には。
たった一杯の「お茶と呼ばれた水」で、である。

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