「不快感」で他人を裁く日本——ビュッフェ警察がはびこる、行き止まりの国

あるポストを見た。

「ディズニーの公式ホテルのビュッフェで、日本人客の食べ残しがひどかった」という内容だった。

最初は、単純に「食べ残しはよくないよね」と思った。
食べきれない量を取って、大量に残す。
それは見ていて気持ちのよいものではないし、食べ物を粗末にしているようにも見える。

けれど、読み進めるうちに、私の中で別の違和感が大きくなっていった。

そのポストで確実に言えることは、実はかなり少ない。

投稿者にとって、過剰と思える量の食べ残しがあった。
スタッフがそれを片付けていた。
投稿者はそれを不快に感じた。

たぶん、確実なのはそのくらいである。

なぜその客が残したのかは分からない。
子どもが取りすぎたのかもしれない。
何度も取りに行けない事情があったのかもしれない。
親の胃腸の調子が悪かったのかもしれない。
料理が思ったより口に合わなかったのかもしれない。
初めてのビュッフェで、胃袋の許容量が分からず舞い上がってしまったのかもしれない。

もちろん、それでも食べ残しは望ましくない。

ただ、もう一つ確かなことがある。

店側は、その客をその場で咎めていない。

出禁にもしていない。
店長が出てきて注意したわけでもない。
追加料金を請求したわけでもない。
「残されると困ります」と明確に止めたわけでもない。

つまり、少なくともその場の運用としては、店側のシステムの中で処理されている出来事だった。

ビュッフェという業態は、そもそも一定の食品ロスを織り込んでいる。

客が少し取りすぎること。
子どもが食べたいと言って残すこと。
人気料理を確保しようとすること。
終了時にビュッフェ台の料理が余ること。
厨房で仕込みすぎること。

それらをすべて含めて、価格や人員や運用が設計されている。

本当に食べ残しを厳しく取り締まりたいなら、店はいくらでも方法を取れる。

残したら追加料金。
小皿提供。
スタッフによる取り分け。
人気料理の回数制限。
時間制限の厳格化。
注意書きの強化。

でも、それをやりすぎると、ビュッフェの楽しさは失われる。
客は緊張する。
スタッフは監視役になる。
トラブルも増える。
「好きなものを好きなだけ取れる」という商品価値が損なわれる。

だから店は、多少の失敗やロスを含めて、商売として成立する地点を選んでいる。

ビュッフェとは、そういう資本主義的な設計の上にある。
「食べ物を大切にしましょう」というきれいな道徳だけではなく、余剰や廃棄や舞い上がりまで含めて成立しているサービスである。

だからこそ、外野の客がそこに対して、いきなり「民度が低い」「値段を上げて排除すべき」と言い始めることに、私は強い違和感を覚えた。

それは、ルール違反への批判ではない。
店側が許容し、処理している範囲の出来事に対して、同じ客の立場にいる人が、自分の不快感を根拠に、勝手に取り締まりを始めているのである。

「私は不快だった」
までは分かる。

「だから、ああいう客が来られないように価格を上げるべき」
となると、話がまったく変わる。

それは、食べ物を大切にする話ではない。
自分の感覚に合わない客層を、その場から排除したいという話である。

そこに現れているのは、食べ物への敬意というより、ビュッフェ警察の発想である。

自分が不快に思ったものを見つける。
それをマナー違反として摘発する。
「民度」という言葉で裁く。
そして、価格やルールを変えて、そういう人間を締め出せと要求する。

これが、私は怖い。

さらに気になったのは、「氷のような表情で残飯を片付ける女性スタッフ」という描写だった。

その表情を、投稿者は「民度の低い客に絶望しているスタッフ」のように読んでいた。

でも、それも本当かどうか分からない。

スタッフは、ただ業務として片付けていただけかもしれない。
ビュッフェで一定量の食べ残しが出ることは、日々の業務の一部かもしれない。
感情を顔に出さず、淡々と作業していただけかもしれない。

客が勝手に、スタッフを「道徳的悲劇のヒロイン」に仕立て上げているだけではないか。

自分の不快感を補強するために、スタッフの内面まで代弁する。
それは、かなり危うい。

さらに、「ディズニーの公式ホテル」という言い方も気になった。

読者はその言葉を聞くと、ミラコスタやディズニーランドホテルのような、ディズニー直営の世界観を持つホテルを想像しやすい。

しかし、コメント欄では、写真の床や椅子から、グランドニッコー東京ベイ舞浜ではないかという指摘が出ていた。

もしそうなら、それはディズニー直営ホテルではない。
東京ディズニーリゾート・オフィシャルホテルに指定されている、一般ホテルブランドのビュッフェである。

もちろん、「オフィシャルホテル」という呼び方自体は間違いではない。
けれど、「ディズニーの公式ホテル」と書くと、読み手の頭の中では一気にディズニー化される。

私はこれを、脳内ディズニー化だと思った。

「舞浜のホテルビュッフェで食べ残しが多かった」なら、普通の話で終わる。
「グランドニッコーのビュッフェで」と書いても、そこまで燃えない。

でも、

「ディズニーの公式ホテルで」
「日本人客が」
「大量に食べ残し」
「スタッフが氷のような表情で」
「客層が悪い」
「民度が低い」

と並べると、読者の頭の中には強い物語ができる。

夢の国に、民度の低い客が入り込んだ。
ディズニーの空間が汚された。
だから値段を上げるべきだ。
そういう客は来られないようにすべきだ。

食べ残しの話が、いつの間にか客層の話になる。
マナーの話が、階層の話になる。
不快感が、排除の話になる。

私はそこが怖いと思った。

そして、この怖さは、ビュッフェだけの話ではない気がする。

公園で子どもが騒ぐ。
すると、「うるさいから遊具を撤去しろ」となる。

保育所の声が聞こえる。
すると、「静かな住宅地に保育所を作るな」となる。

フードコートで子どもがソフトクリームを落とす。
すると、「親の躾が悪い」「そういう家族が来ない価格帯にすべき」となる。

シェアサイクルを公園に置こうとする。
すると、「自分たちは使わない」「景観が悪い」「邪魔だ」となる。

ここにある構造は、どれも似ている。

ルールの中で起きている摩擦を、個人の不快感が上書きしようとする。

公園は、子どもが声を出すことも含めて設計されている。
保育所は、子どもが生活することを前提に存在している。
フードコートは、多少の雑然さを含む場所である。
シェアサイクルは、使う人と使わない人がいる中で、地域全体の移動手段として設置される。

それでも、自分が不快だと、

撤去しろ。
作るな。
値段を上げろ。
来られないようにしろ。

と言いたくなる。

でも、不快感はルールではない。

不快に思うこと自体は自由である。
食べ残しを見て嫌な気持ちになる。
子どもの声をうるさいと感じる。
知らない乗り物が公園に置かれることに抵抗を感じる。

それ自体は、人間の自然な感覚だと思う。

けれど、不快であることと、排除すべきであることの間には、本来かなり大きな距離がある。

その距離を飛び越えると、社会はどんどん狭くなる。

子どもが失敗できない場所になる。
若い家族が舞い上がれない場所になる。
お金のない人が非日常を楽しめない場所になる。
高齢者が使わないものは置けない場所になる。
声の大きい人の感覚に合わないものから、順番に消えていく。

そして最後には、誰にとっても少し息苦しい、清潔で静かで退屈な空間だけが残る。

これは、この30年の日本社会の縮図なのかもしれない。

波風を立てないこと。
苦情が来ないこと。
失敗しないこと。
怒られないこと。
誰かを不快にさせないこと。

それらが、いつの間にか最優先の価値になってしまった。

挑戦して失敗する人より、何もしない人のほうが安全になる。
新しいものを置くより、置かないほうが揉めずに済む。
子どもが声を出す場所を残すより、最初から静かな空間にしてしまうほうが楽になる。
若い世代の移動手段を増やすより、いまその場所を使っている人の違和感を優先してしまう。

そうして、社会は少しずつ「失敗できないビュッフェ」になっていく。

本来、ビュッフェは少し失敗する場所である。
取りすぎる。
思ったより食べられない。
次は少なめにしようと学ぶ。
子どもも、大人も、自分の欲望と胃袋の大きさをそこで知る。

もちろん、何度も大量に残すのはよくない。
しかし、一度の失敗や不器用さを見つけた瞬間に、「民度が低い」「排除すべき」と言われる社会は、あまりにも余白がない。

そして、余白のない社会は、挑戦にも弱い。

新しい事業も、子育ても、公共交通も、公園の使い方も、最初から完璧にはいかない。
必ず摩擦がある。
必ず不快に思う人がいる。
必ず「こんなもの要らない」と言う人が出る。

そのたびに、波風を立てないために撤去し、縮小し、禁止し、値上げし、排除していたら、社会には何も残らない。

残るのは、苦情が来ないものだけである。
つまり、誰の挑戦でもなく、誰の失敗でもなく、誰の成長でもないものだけである。

もちろん、限度はある。

食べ残しすぎるのはよくない。
子どもを放置して走り回らせるのも危ない。
シェアサイクルも安全や動線を考えなければならない。
公園も保育所も、周辺との調整は必要である。

でも、限度を考えることと、最初から排除することは違う。

私は、この件で一番気になったのは、食べ残しそのものではなく、そこに群がる視線だった。

他人の不完全さを見つける。
そこに強い言葉を貼る。
自分の不快感に、道徳の名前を与える。
そして、「ああいう人たちは来ないでほしい」と言う。

そのとき人は、自分がとても正しい場所に立っているような気持ちになる。

食べ物を大切にしている私。
マナーを守っている私。
公共心のある私。
民度の低下を憂いている私。

でも、その正しさの奥に、
「自分の感覚に合わない人を見たくない」
という欲望が混ざっていないか。

そこは、かなり注意したほうがいいと思った。

ビュッフェ客は、皿に食べ物を残したのかもしれない。
それはよくない。

でも、投稿者は、タイムラインに嫌悪感を盛りつけすぎたのかもしれない。

そして、その嫌悪感に群がった人たちは、食べ残しを批判しているようで、本当は、自分の感覚に合わない人を社会から追い出す口実を探していたのかもしれない。

ビュッフェ警察は、食べ残しを裁いているつもりで、「社会の余白」を取り締まっている。

「もったいない」という言葉は美しい。
けれど、その美しさは、ときどき他人を見下すための道具になる。

食べ物を大切にすることと、
自分の感覚に合わない人を排除したくなることは、
似ているようで、まったく違う。

不快感は、持ってしまう。
それは仕方ない。

でも、不快感を、そのままルールにしてはいけない。
不快感を、そのまま排除の理由にしてはいけない。

その線を越えた瞬間、私たちは、他人の食べ残しよりもずっと大きなものを、社会から捨ててしまうのだと思う。

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