白い和装は、日本人に「死」を連想させる。

白い和装は、日本人にとって軽いファッション記号ではない。

死装束、白無垢、白装束、切腹、神事、葬送、覚悟を連想させる重い装いである。

それを「日本文化へのリスペクトと愛」と言うなら、その重さを引き受けてほしい。

今回の大坂なおみ選手の白い和装風衣装について、私はかなり強い違和感を覚えた。

単に「似合っているかどうか」の話ではない。
「着物として正しいかどうか」だけの話でもない。
「奇抜なファッションだね」で済ませられる話でもない。

問題は、それを「日本文化へのリスペクト」や「日本への愛」として世界に提示したことだ。

白い和装は、日本人にとって軽い記号ではない。

白無垢なら婚礼。
死装束なら葬送。
白装束なら神事、修行、覚悟、俗世との切断。
文脈によっては、切腹や死出の旅路のイメージまで立ち上がる。

つまり、全身真っ白の和装は、日常の「かわいい日本風」ではない。
人生の境目、死、生まれ変わり、清浄、覚悟、神聖さに触れる、非常に重い装いである。

それを、ウィンブルドンの白いドレスコードの中で目立つためのファッション演出として使う。
さらに、桜、鶴、かんざし、帯、白無垢、『キル・ビル』の白い着物イメージを混ぜる。
そして最後に「日本文化へのリスペクトと愛です」と言う。

私は、そこに強い違和感がある。

創作なら創作でいい。
日本風アレンジなら日本風アレンジでいい。
『キル・ビル』へのオマージュなら、それも一つの表現である。

しかし、それを「日本文化へのリスペクト」と呼ぶなら話はまったく違う。

リスペクトとは、便利な飾り言葉ではない。
「好きです」と言えば成立するものでもない。
対象の型、歴史、儀礼性、TPO、そしてその文化の中でその記号が持つ重さを理解しようとする態度まで含むものだ。

日本文化への造詣も、白い和装への理解も十分に感じられないものを、「リスペクト」や「愛」という言葉で包んで、世界に日本文化として提示しないでほしい。

これは、日本文化を好きになるなという話ではない。
日本風の服を着るなという話でもない。
外国人が日本文化を表現するなという話でもない。

むしろ、海外のアーティストがミュージックビデオで日本風のドレスを着るくらいなら、私はそこまで気にならない。

テイラー・スウィフトでも、アリアナ・グランデでも、ビヨンセでもいい。
彼女たちが日本風の衣装を着て、ファンが日本文化に興味を持つなら、それはそれで嬉しい。
解釈が甘くても、外から見た日本像として受け取れる。
かつてのジャポニズムのように、日本的なものが世界のファッションや芸術の中で再解釈されることもあるだろう。

しかし、大坂なおみ選手の場合は違う。

彼女は日本にルーツを持ち、国際的にも日本と結びつけて見られる人物である。
その人が、あやふやな理解のまま、日本文化を代表するような顔で「これが私の日本文化へのリスペクトです」と示すなら、受け手の側も当然、より厳しく見る。

ルーツがあることは、文化を雑に扱う免許ではない。
むしろ、世界から日本と結びつけて見られる人だからこそ、慎重さが必要だと思う。

しかも、今回の場はパリコレではない。
ファッションショーでもない。
ウィンブルドンである。

ウィンブルドンは、長い歴史と格式を持つ、スポーツ界でも特別な場である。
白いウェアの伝統も、単なる「白なら何でもいい」という話ではないはずだ。
本来は、場に身を合わせるための型であり、選手個人の過剰な主張を抑えるための格式でもあったはずである。

もちろん、現代のトップアスリートにとって、ファッションやスポンサー戦略が重要であることは理解している。
選手の一挙手一投足が経済を動かし、かっこいいウェアが売れ、ブランド価値を高める。
白いドレスコードの制約の中で、どう注目を集め、どう物語を作るかという課題があったことも分かる。

しかし、だからこそ余計に引っかかる。

ウィンブルドンの白縛りがある。
その白縛りの中で、いかに目立つかを考える。
そこで、日本の白い儀礼的装いが選ばれる。
そして、それを「日本文化へのリスペクト」と言う。

それは、私にはかなり危うく見える。

日本文化が、ウィンブルドンの白いドレスコードの中で注目を浴びるための演出資源として使われたように見えるからだ。

『キル・ビル』の白い着物を参照したという話も、むしろ違和感を強める。

ルーシー・リューが演じたオーレン・イシイは殺し屋である。
あの白と黒の衣装は、優雅さ、冷酷さ、死、雪、血、決闘を引き出すための演出だった。
白い和装が持つ死の気配や不安を、役柄と場面の中で理解し、引き受けた使い方だった。

あれは、単なる「日本っぽい白い着物」ではない。
白が死を帯びているからこそ、あの場面に合っていた。
黒があるから、白が生きた。
雪があり、血があり、殺し屋がいて、決闘があったから、成立していた。

そこには、言葉で「リスペクトです」と言わなくても、造詣と理解が感じられる。

一方で、今回の衣装はどうか。
その白が持つ死の気配、儀礼性、覚悟、不安、緊張感を、本当に引き受けていたのだろうか。

私にはそう見えなかった。

むしろ、ウィンブルドンの白縛りの中で目立つために、日本の白い儀礼的記号が選ばれたように見えた。
外から見て分かりやすい「日本っぽさ」を集め、それを「リスペクトと愛」という美しい言葉で包んだように見えた。

こういうものを、私は「ニワカな記号消費」と呼びたい。

もちろん、誰でも最初はニワカである。
文化に興味を持つ入口は、いつだって浅い。

桜がきれい。
着物がきれい。
侍がかっこいい。
アニメが好き。
『キル・ビル』が好き。

そこから始まるのは悪いことではない。

しかし、ニワカのまま「これが日本文化へのリスペクトです」と世界に掲げるのは違う。

知らないなら、知らないと言えばいい。
自分なりの日本風アレンジです、と言えばいい。
『キル・ビル』へのオマージュです、と言えばいい。
自分のファッション表現です、と言えばいい。

それなら、表現として受け取れる。

しかし、日本文化へのリスペクトという看板を掲げるなら、その言葉に見合う理解が必要である。

白い和装が日本人に何を連想させるのか。
白無垢と死装束の違いは何か。
白装束や切腹のイメージとどう接続するのか。
ウィンブルドンという場で、それをどう成立させるのか。
『キル・ビル』の白は、なぜ白だったのか。

その程度の確認は、今ならAIに一言聞くだけでもできる。
少し調べれば、「これは危ないかもしれない」と気づけたはずである。

それでもやったのか。
調べなかったのか。
調べたうえで、目立てばよいと判断したのか。

どちらにせよ、私は極めて遺憾である。

そして、ここでさらに引っかかることがある。

大坂なおみ選手は、これまで人種差別に対して声を上げてきた人でもある。
自身のルーツや、黒人女性としてのアイデンティティを踏まえ、不正義に対して沈黙しない姿勢を示してきた。
そのこと自体は、とても立派なことだと思う。

彼女は、表象される側の痛みを知っている人のはずである。
社会に対して、「歴史を見ろ」「構造を見ろ」「文脈を見ろ」「沈黙するな」と訴えてきた人のはずである。
記号が世界に意味を運ぶことを知っている人のはずである。

名前。
色。
衣装。
身体。
登場の仕方。

それらが、見る人に意味を与え、ときに傷つけ、ときに社会に問いを投げかけることを知っている人のはずである。

だからこそ、今回の件には、より強い違和感がある。

差別や表象の問題において大切なのは、表現する側の善意だけではない。
表象される側に、それがどう見えるかである。

「悪気はない」
「好きだからやった」
「リスペクトのつもりだった」

そう言えば済む話ではない。

それは、大坂選手自身がこれまで社会に突きつけてきた倫理でもあるはずだ。

ならば、日本文化についても同じではないか。

白い和装を「日本文化へのリスペクト」として世界に示すなら、それが日本人にどう見えるのかを考えてほしい。
白無垢だけでなく、死装束、白装束、切腹、葬送、神事、覚悟を連想させる装いであることを、軽く扱わないでほしい。

自分が表象される側に立ったときには、社会に理解を求める。
ならば、自分が他の文化を表象する側に立ったときにも、その文化の受け手の違和感に敏感であってほしい。

これは、黒人差別の問題と、日本文化のファッション表象の問題を同列に置くという意味ではない。
歴史の重さも、制度的暴力の性質も違う。

しかし、少なくとも一つの原理は共通している。

表象される側の違和感を、表現する側の善意で上書きしてはいけない。

「リスペクトのつもりだったからいい」
「日本を好きなんだからいい」
「似合っているからいい」
「話題になったからいい」

そうやって流されることに、私は強い違和感がある。

彼女がかつて社会に示した倫理を、私は今回、日本文化の側から彼女自身に問い返したい。

日本文化への敬意を語るなら、日本文化を学んでほしい。
好きなら、その重さを引き受けてほしい。
リスペクトという言葉で、理解の浅さを包まないでほしい。

これは、彼女を貶めるための批判ではない。
彼女が世界に突きつけてきた「表象の責任」という倫理を、彼女自身にも同じように求める批判である。

日本文化は、外から見て分かりやすい記号の詰め合わせではない。
白い着物、桜、鶴、帯、かんざしを並べれば、日本文化への敬意になるわけではない。

本当のリスペクトは、言葉ではなく、理解に表れる。
文化の重さを引き受けた使い方に表れる。
その文脈を踏まえた慎重さに表れる。

「リスペクトと愛です」と言えば敬意になるのではない。
むしろ、理解の浅さをその言葉で包むなら、その言葉自体が軽くなる。

日本文化への敬意を語るなら、日本文化を学んでほしい。
日本文化の重い記号を使うなら、その重さを引き受けてほしい。
それができないなら、「日本文化へのリスペクト」という看板を掲げないでほしい。

今回の問題は、衣装が似合うかどうかではない。
日本を好きでいてくれて嬉しい、で済む話でもない。
日本文化が、分かりやすい記号として雑に消費され、それが「リスペクト」として世界に流通してしまうことへの違和感である。

表象される側の違和感を、表現する側の善意で上書きしてはいけない。

私はそこに、強く抗議したい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました