人間は、何から自由になりたいのだろう。

今日、デンマークの働き方を紹介する記事を読んだ。

記事では、「仕事・睡眠・自由時間を8時間ずつ確保する」という考え方や、「第3の時間」の大切さが紹介されていた。

「成果につながらなくても、自分に第3の時間を許可する。」

「何にもつながらなくていい。」

「将来の仕事にも、生産性にも関係ない時間を持っていい。」

そんな言葉が並んでいた。

最初は「なるほど」と思った。

でも、読み進めるうちに、どこか違和感が残った。

考えてみると、その言葉の背景には、

「仕事が人生の中心である。」

「仕事や生産性につながらないことは、本来あまり価値がない。」

という前提が透けて見える気がした。

だからこそ、「仕事とは関係なくてもいい」「成果につながらなくてもいい」と、あえて言葉にする必要がある。

私が考えたかった自由は、それよりもう一段手前にあるものだった。

会社の中で自由時間をどう増やすかではなく、

私たちは、そもそもどのような世界の上で生きているのか。

ということだ。

そこで思い至ったのが、

都市圏・文明圏・経済圏

という存在だった。

私たちは、生まれた瞬間からその中で暮らしている。

蛇口をひねれば水が出る。

スーパーには食料が並ぶ。

病院があり、道路があり、警察があり、電気が届く。

それが当たり前になっている。

でも、それは本来、当たり前ではない。

もし無人島で一人暮らすなら、生きるためには何が必要だろう。

水を探す。

火を起こす。

食料を確保する。

雨風をしのぐ住居を作る。

病気やケガを防ぐ。

野生動物や災害から身を守る。

孤独に耐えながら、精神を保つ。

つまり、生きるということ自体が、一つの巨大な仕事になる。

しかも、この仕事は、一つだけ得意でも生き抜けない。

水だけ確保できても、食料がなければ飢える。

食料があっても、住居がなければ寒さで命を落とす。

住居があっても、病気になれば終わる。

精神を病めば、体が動かなくなる。

自然は、一つの能力だけを評価してくれる世界ではない。

生きるために必要な条件を、総合的に満たすことを求めてくる。

一方で、人間社会は違う。

農家が食料を作る。

水道局が水を届ける。

建設業が家を建てる。

医療従事者が病気を治す。

警察や消防が安全を守る。

一人では到底100点を取れない「生きるための条件」を、社会全体で分担し、お互いに補い合っている。

誰かが農業をする。

誰かが看護をする。

誰かがごみを収集する。

それぞれが自分の役割を担うことで、一人では生き抜けない自然の条件を、社会全体で乗り越えている。

そう考えると、文明とは、

「人間一人では達成できない、生きるための100点を、社会全体で補い合う仕組み」

なのかもしれない。

税金も、分業も、都市も、そのために存在している。

もちろん、その仕組みの中には窮屈さもある。

ルールもある。

会社もある。

自由が制限される場面もある。

でもその代わりに、私たちは本来自分一人で背負わなければならない、生きるための膨大な仕事を社会に預けることができる。

だから、「自由」とは単純なものではない。

社会から自由になることは、その分だけ自然と直接向き合うことでもある。

一方で、人間が本当に自由になりたいのは、社会そのものではなく、「稼げる人が価値ある人」「役に立つ人が価値ある人」といった、社会から与えられる評価なのかもしれない。

この二つは、似ているようで全く違う。

今日の記事は、自由時間について書かれていた。

でも私が考えたのは、「自由時間をどう増やすか」ではなかった。

人間は、本当は何から自由になりたいのだろう。

そして、その自由は、誰が、何を肩代わりしてくれていることで成り立っているのだろう。

そんなことを考えた一日だった。

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