「説教」という言葉について、考えていた。
同じように相手へ何かを伝える行為でも、「助言」「指導」「忠告」「感想」「世間話」と呼ばれる場合もあれば、「説教」と呼ばれる場合もある。
では、何が違うのだろう。
単に話が長いからではない。
口調が強いからでもない。
語られている価値観が古いから、とも限らない。
考えているうちに、次の定義がいちばんしっくりきた。
説教とは、相手を対話者ではなく、矯正対象として扱う話し方である。
もう少し詳しく言えば、
説教とは、おかしいことを「おかしい」と返す権利が聞き手に認められないまま、人格や生き方まで一方的に査定される会話形式である。
指導が、説教へ変わる瞬間
仕事で数字を間違えた人に、
「この数字が違っています。確認して修正してください」
と伝える。
これは普通の指摘や指導である。
少し強い口調で、
「重要な数字なんだから、次からは必ずダブルチェックしてください」
と言えば、叱責にはなるかもしれない。
しかし、そこから、
「だいたい、お前はいつも詰めが甘いんだ」
「仕事に対する姿勢がなっていない」
「俺たちの若いころは、もっと必死だった」
「そういう考えでは、いつまでたっても一人前になれないぞ」
と広がっていくと、私たちはそれを「説教」と呼ぶ。
変化しているのは、単に話の長さではない。
批判の対象が、
「今回の数字の間違い」
から、
「普段の姿勢」
「本人の性格」
「人間としての成熟度」
「最近の若者という世代全体」
へ膨張している。
具体的な行為を直す話だったものが、いつの間にか人格全体の査定へ変わっている。
しかも、その査定について本人が、
「いや、それは今回のミスとは別の話ではありませんか」
と返すことは許されない。
反論すれば、
「言い訳するな」
「そうやって素直に聞けないところを言っているんだ」
と、反論したこと自体が、さらに人格評価の材料にされる。
説教の場では、話し手と聞き手の役割が最初から固定されている。
話し手は、正しい側、成熟した側、評価する側。
聞き手は、間違った側、未熟な側、反省する側。
聞き手に許される言葉は、
「はい」
「おっしゃるとおりです」
「反省します」
「今後気をつけます」
だけになる。
説教とは、内容の種類というより、発言権が非対称に配分された会話形式なのだと思う。
助言の顔をした説教もある
説教は、最初から怒鳴りつける形だけではない。
「そろそろ結婚したほうがいいんじゃない?」
「若いうちは苦労しておいたほうがいいよ」
「上司の誘いには付き合ったほうがいい」
「子どもを持てば、責任というものが分かるよ」
表面上は、親切な助言に見える。
本当に助言なら、
「そうですか。でも私はそうしません」
で終わるはずである。
ところが、断った瞬間に、
「素直じゃない」
「まだ人生を分かっていない」
「そんな考えだから成長できない」
「将来後悔するぞ」
と、不利益評価が始まる。
つまり、表向きは任意の助言でも、実際には、
従わなければ、あなたの人格評価を下げます。
という要求が裏に仕込まれていたことになる。
空き家法などでは、助言、指導、勧告、命令と、段階によって法的な効果が違う。
それになぞらえるなら、この種の説教は、
助言という文体を使いながら、実質的には勧告や命令を行っている
ようなものである。
「決めるのはあなたですよ」と言いながら、拒否するとムラの非公式な不利益処分が待っている。
未熟者として扱われる。
可愛げのない人間とされる。
仲間から外される。
出世できない人間と評価される。
親不孝者とみなされる。
形式上は断れるが、無傷で断ることはできない。
だから、その言葉が助言なのか説教なのかは、最初の発言だけでは分からない。
断ったときに、
「そうですか。決めるのはあなたです」
で終わるなら助言。
「まだ分かっていない」と続くなら、最初から任意の助言ではなかった。
説教の本体は、拒否された後に現れる。
自分のムラの掟を、世界の掟だと思う
人は一つの共同体にだけ属しているわけではない。
会社ムラ、部署ムラ、管理職ムラ、若手ムラ、同期ムラ、既婚ムラ、子持ちムラ、体育会系ムラ。
一人の人間の中にも、いくつものムラが重なっている。
ここでいうムラとは、物理的な集団というより、同じ価値観や常識を共有する規範共同体である。
会社の正式なルールについて、上司が部下へ説明するなら、それは会社ムラの指導として理解できる。
しかし、上司が、
「家庭を持って初めて責任感が身につく」
「管理職になる人間なら、結婚していて当然だ」
と言い始めたら、それは会社ムラのルールではない。
おそらく、既婚男性管理職ムラのローカルルールである。
ところが話し手は、それを、
「社会人なら当然」
「世間ではそう見られる」
「人として普通」
という、もっと大きなムラの掟であるかのように語る。
ここに「説教くささ」が生まれる。
説教くささとは、価値観の古さ以上に、自分のムラの大きさを実際より大きく扱う態度から生まれる。
ただし、本人が意識的に、
「自分の小さなムラの掟を、世間全体の掟に偽装してやろう」
と考えているとは限らない。
本人自身が、本当にそれを世間の常識だと思っていることも多い。
自分の価値観に従って生き延びた。
会社で出世した。
結婚して家庭を築いた。
家を買い、財産を蓄えた。
その成功体験によって、
「この道は私には合っていた」
が、
「この道こそ、人間一般が歩むべき正しい道だ」
へ変わってしまう。
さらに年齢や地位が上がるほど、周囲から訂正される機会は減っていく。
部下は反論しない。
家族は面倒なので聞き流す。
取引先は笑顔でうなずく。
同世代の友人は似た人生を歩んでいる。
実際には反論できないだけなのに、本人は沈黙を同意として集計する。
こうして、
自分のムラの地図を、世界地図だと思い込む。
相手のムラを「未熟な仮住まい」にする
説教する人も、相手に別の価値観があることくらいは分かっている場合がある。
若者は仕事より私生活を重視している。
未婚者は一人の生活を好んでいる。
今の世代は出世を望まない。
そこまでは見えている。
しかし、それを対等な別のムラとして認めない。
「若いからそう思うだけ」
「苦労していないから分からない」
「そのうち私と同じところへ到達する」
と処理する。
相手の価値観を、独立した一つの世界としてではなく、
自分のムラへ到着する前の、未成熟な仮住まい
として扱うのである。
だから議論が成立しない。
相手が、
「私はあなたとは別の価値を選んでいます」
と言っても、
「まだ本当の価値が分かっていないだけだ」
とされる。
説教する側は、自分の価値観を説明しているだけではない。
誰が成熟し、誰が未熟なのかを判定する権利まで、一人で握っている。
反論するほど、未熟者になる
説教がさらに強固になると、次のような構造が生まれる。
納得する
→教えが正しかった。
反論する
→未熟だから理解できない。
どちらに転んでも、説教する側は正しい。
これは、アンデルセン童話『裸の王様』の「馬鹿には見えない布」と同じ構造である。
「布が見えません」と言えば、馬鹿だと認定される。
「見えます」と言えば、正常で有能な人間として扱われる。
布が存在するかを検証するはずだったのに、いつの間にか観察者の能力審査へすり替わっている。
否定することが、命題への反証ではなく、否定者自身の欠陥の証明になる。
こうなると、その説は無敵になる。
批判に答える必要がない。
批判者を未熟者、無知な者、悪意のある者に分類すればよいからである。
戸塚宏氏の語りに見える「説教の完成形」
この構造を極端に分かりやすく示しているのが、戸塚宏氏の体罰論だった。
ある動画で、聞き手が、
「体罰について、初心者向けにもう一度説明してください」
と話を振る。
戸塚氏は開口一番、
「日本中が初心者じゃない?」
と言う。
そして、
「誰も体罰が何かを知らずに反対している。非科学的だ」
と置く。
この時点で、
- 戸塚氏=体罰を知る上級者
- 批判者=何も知らない初心者
という席順が完成している。
体罰の有効性を説明する前に、反論者の身分を先に下げてしまう。
しかし、体罰を自分で実行した経験がなくても、体罰を受けた人、見た人、影響を研究した人はいる。
「体罰を行う技術」を知らないことと、「体罰の有効性や危険性を評価できない」ことは別である。
裁判官は、殺人を経験していなくても殺人事件を審理できる。
むしろ、行為者だけに行為の評価を独占させないために、外部の検証者が必要になる。
さらに戸塚氏は、体罰を、
「進歩を目的とした有形力の行使」
と定義する。
ここには、「進歩」という善い価値があらかじめ埋め込まれている。
体罰=進歩のため。
進歩=善。
だから体罰=善。
しかし、本来問うべきなのは、
進歩を目的としたと称する行為が、実際に進歩をもたらしたのか。
である。
目的の善性は、結果の善性を保証しない。
「治療を目的として行ったから、その治療法は善である」とは言えないのと同じだ。
効果、副作用、代替手段、適応、中止基準を検証しなければならない。
体罰を受けて行動が変わったとしても、それが本当に進歩なのかは分からない。
理解が深まったのか。
自律性が育ったのか。
能力が向上したのか。
単に、恐怖によって従うようになっただけではないのか。
また、人は体罰以外でも進歩する。
体罰をしても進歩しない人もいる。
したがって体罰は、進歩の必要条件とも十分条件とも証明されていない。
それでも反対者を「初心者」に置けば、
方法に問題があるのではなく、批判者が理解できていないだけだ
と処理できる。
ここに、説教と無敵の思想が結合する。
日常的な説教と戸塚式教育では、権力も強制力も被害の大きさもまったく異なる。
しかし、
相手を対話者ではなく矯正対象に置く。
反論を、自説への反証ではなく相手の未熟さへ変換する。
何が成功で何が失敗かを、説教する側が一人で判定する。
という論理の型には、共通するものがある。
強制的な環境では、この型は特に危険になる。
聞き手は反論できないだけでなく、
「苦しい」
「おかしい」
「やめてほしい」
「逃げたい」
という訴えまで、
「まだ甘えが残っている」
「だから、さらに矯正が必要だ」
という証拠に変えられ得るからである。
説教は、対称化すると正体を現す
戸塚氏が、
「人は痛みによって進歩する。だから体罰は善である」
と、人間一般に通用する原理を語るなら、その原理は本人にも適用されるはずである。
「では、戸塚さんも誰かに体罰を受ければ、さらに進歩するのではありませんか」
と返したら、どうなるだろう。
説教にも同じ片方向性がある。
上司は部下の人格を評価できる。
部下が上司の人格を評価すると、無礼になる。
年長者は若者へ人生を教えられる。
若者が年長者へ「あなたも成長したほうがよい」と返すと、口答えになる。
既婚者は未婚者を未成熟と呼べる。
未婚者が既婚者の未成熟さを指摘すると、負け惜しみとされる。
つまり説教の掟は、普遍的な掟ではない。
上から下へだけ流れる、片方向の掟
である。
だから、その原理を話し手自身にも適用しようとすると壊れる。
もし対称化された瞬間に怒り出すのなら、もともと語られていたのは普遍的な真理ではなく、
自分が上位にいる秩序
だった可能性が高い。
「おかしい」と返せる関係へ
説教を受けると、つい、
「私は本当に未熟なのだろうか」
と、自分の中を点検してしまう。
でも、その前に考えてもよい。
これは具体的な行為への指摘なのか。
それとも人格全体の査定なのか。
私は、この話を拒否できるのか。
拒否したとき、不利益評価が始まらないか。
この人が語っているのは、どのムラの掟なのか。
本人の経験なのか、会社の公式ルールなのか、本当に社会全体の原則なのか。
そして最も重要なのは、
この人は、私の反論を、自分の考えを修正するための情報として受け取れるのか。
ということだと思う。
対話とは、相手の反論によって、自分も変わり得る会話である。
説教とは、話し手だけが相手を変えようとし、自分が変わる可能性を最初から閉じた会話である。
だから、説教の反対は、優しい言葉ではない。
厳しくても、相手に反論する権利があり、話し手も検証の対象になるなら、それは対話や指導になり得る。
説教の反対は、
相手を、矯正すべき未熟者ではなく、自分を訂正し得る対話者として扱うこと
なのだと思う。

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