最近、あるポストをきっかけに「会話と対話って何が違うんだろう」と考えていた。
きっかけはカポさんの話だったんだけど、それを読んでいて、なんとなく「ああ、これ自分のことだな」と思った。
これまでの自分を振り返ると、大学のバドミントンサークルとか、地域のサークルとか、職場とか、それなりに人と関わってきたし、友人もいるつもりだった。
でも、45歳になってみると、あの頃の関係って、ずいぶんあっさりほどけていくんだなと思う。
結婚して、子どもが生まれて、生活が変わっていく人たち。
自分は自分で、また違うリズムで生きている。
それは当たり前なんだけど、ふと気づくと、共有していたはずの時間や関係が、静かに消えている。
たぶん、あのとき自分がしていたのは「会話」だったんだと思う。
同じ場所にいて、同じことをして、同じ話題で話す。
それはそれで楽しいし、必要なものだけど、そこに「対話」があったかと言われると、少し違う気がする。
対話って、もっとこう、お互いの“見え方”とか、“感じ方のズレ”に触れるものだと思う。
でもそれって、けっこう怖い。
ズレに触れるということは、傷つく可能性があるし、予測できない方向に話が進むこともある。だから、多くの場合はそこまで踏み込まない。
自分も、ずっとそうだった気がする。
特に同性愛者として生きていると、そもそも前提のズレがあるから、それをどう扱うかという問題がいつもついてくる。
だから自然と、相手の言葉の裏を読んだり、自分の感じている違和感を言葉にしたり、そういう“対話っぽいこと”をしてきた。
でも、今振り返ると、それは一人でやっていただけなのかもしれない。
相手はただ会話をしている。
自分は対話をしようとしている。
そのズレに気づかずに、「なんか分かり合えないな」とか、「ちゃんと話せてないな」とか、勝手に傷ついていた気がする。
でもそれって、よく考えたら「独り相撲」なんだよね。
相手が悪いわけでもなく、自分が悪いわけでもなく、ただモードが違っていただけ。
そう思えるようになって、少し楽になった。
だからといって、全部を切り捨てるのも違う気がする。
「どうせ対話なんてできないし」と完全に距離を置いてしまうと、世界が閉じてしまう。
かといって、「もっと分かり合おう」と無理に深めようとすると、また同じことの繰り返しになる。
最近しっくりきているのは、その中間のような距離感。
やわらかく関わるけど、期待しすぎない。
完全に切るわけでもないけど、無理に温めるわけでもない。
なんとなく“生暖かい”くらいの距離。
それが冷たいのか優しいのかは分からないけど、少なくとも今の自分には、そのくらいがちょうどいい気がしている。

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