ある動画を見た。
松井ケムリ氏が、新宿二丁目のゲイバーでモテた、という趣旨のトークだった。
最初に見たとき、私は少し混乱した。
松井ケムリ氏が、男性同性愛者の一部に刺さりそうな要素を持っていることは、分かる。かなり分かる。
大柄で、柔らかそうで、育ちがよさそうで、攻撃性が低そうで、いじられたときに拒絶しなさそうな雰囲気がある。
「ゲイにモテる」という雑な言い方はともかく、二丁目的な一部の文脈で、彼が好意的に見られること自体には、納得感があった。
でも、何かが引っかかった。
その違和感を考えていくうちに、YouTubeのコメント欄に、近い感覚を書いている人たちがいた。
もちろん、コメントの多くは好意的だった。
「面白い」「松井さんかわいい」「モテるの分かる」というような、表層的に楽しむコメントが大半だったと思う。
でも、一定の割合で、別の反応もあった。
「ゲイにモテることを自覚して前面に出すノンケは嫌われる」
「店に行けば接客されるのだから、それをモテと言うのは違う」
「ゲイ全員がこういうタイプを好きだと思わないでほしい」
「界隈で嫌われ始めてる原因は、この動画だろうか?」
そういうコメントがあった。
そのとき、私の中で、違和感の輪郭が少しずつ見えてきた。
これは、松井ケムリ氏がゲイに刺さること自体への違和感ではない。
むしろ、刺さることは分かる。
問題は、彼がその「刺さり」を自覚し、取りに行き、番組のトークとして回収してしまったように見えたことだった。
ノンケ男性という存在は、男性同性愛者の側から見ると、もともと「酸っぱいブドウ」の要素を持っている。
魅力的に見える。
でも、基本的には手に入らない。
こちらが好意を持っても、相手は異性愛社会の本線にいる。
女性と恋愛し、結婚し、家庭を持ち、社会から「普通の男」として扱われる。
だから、男性同性愛者にとってノンケ男性への憧れは、最初から少し苦い。
もちろん本気でどうこうなりたいわけではない。
女性アイドルとそのファンとの関係に近いところもある。
現実には、恋愛関係になる可能性はほとんどゼロ。
でも、そのゼロを完全には言い切らない余白が、ファンタジーを支えている。
「たぶんノンケだよね」
「でも、なんか少し分かってくれそう」
「もしかしたらバイっぽい余地もあるのかも」
「いや、ないだろうけど、でもかわいいよね」
そういう、内輪の、ひそかな、半分冗談で半分本気の鑑賞がある。
松井ケムリ氏は、たぶんその対象になり得た。
「かわいいノンケ男性」として、ゲイ側が勝手に夢を見られる対象だった。
けれど、動画の中で見えた彼は、少なくとも私には、少し違って映った。
自分から二丁目に行く。
モテることを確認する。
シャツを脱いでタンクトップになる。
二軒、三軒とハシゴする。
そして、その体験を番組で「ゲイにモテた」エピソードとして語る。
それは、もはや「無自覚に刺さってしまった人」ではない。
「自分が酸っぱいブドウであることを知り、そのブドウをこちらの前で揺らして遊び始めた人」に見えてしまう。
ここが、私にはかなり大きかった。
ゲイ側が内輪で楽しんでいた欲望は、もともと非可視化されていた。
「あの人いいよね」と、こちら側で小さく共有されていた。
でも松井氏がそれを番組で話したことで、その酸っぱいブドウに群がるゲイ側の視線まで、本人のトーク資産として可視化されてしまった。
しかも、その可視化のされ方は、かなり雑だった。
「ゲイにモテる」
「二丁目でモテる」
「タンクトップになったら盛り上がった」
「有名人が来ていると噂になって人が集まった」
そういう形で語られると、ゲイバーの客やママたちは、彼の武勇伝を成立させるための背景になってしまう。
本当は、そこにはもっと深いものがあったはずだ。
たとえば九州男の話のくだり。
フレディ・マーキュリーの話。
先代のママが生きた時代の話。
昔の差別の話。
今は少し寛容になったけれど、まだ残っている生きづらさの話。
三軒も回ったなら、本来はそういう話に触れる機会もあったのではないかと思う。
でも、動画で語られた範囲では、残ったのはほとんど「自分がどう見られたか」だった。
見た目でキャーキャー言われた。
タンクトップで視線を集めた。
有名人が来ていると噂になった。
自分はゲイにモテるらしい。
つまり、ゲイバーに行ったのに、ゲイバーの人たちを見ていない。
自分に向けられた視線だけを見ている。
ここに、体験の浅さを感じた。
一方で、考えれば考えるほど、ママたちの懐の深さも見えてくる。
もしかすると、松井ケムリ氏は本当に「モテた」と思い込んだまま帰ったのかもしれない。
そして、そのままエピソードをまとめ、番組で披露した。
だとすれば、それは逆に、ママやスタッフたちが、その場を非常に上手く演出していた証拠でもある。
相手に踏み込みすぎない。
理解を強いない。
説教しない。
「あなたは分かっていない」と詰めない。
その人がその夜に受け取れる最大限度まで、楽しませる。
その場では、松井氏にとって「自分はモテた」という体験として成立する。
でも、ママたちの側からすれば、もしかすると、
「はいはい、楽しんでいきなさい」
「あなたはまだ、そこまで分からなくていい」
「今夜はお客さまとして、気持ちよく帰りなさい」
くらいの、大人の距離感だったのかもしれない。
そう考えると、ゲイバーのママたちはすごい。
相手の理解度を見極める。
深い話ができる客には深く話す。
遊びに来た客には遊ばせる。
無邪気なノンケには、無邪気な夢を見せる。
でも、たぶん全部見えている。
松井氏が「モテた」と思って帰ったこと自体は、その夜の接客としては成功だったのだと思う。
問題は、そのあとだった。
彼はそれを、
「自分はゲイバーのママたちに上手に遊んでもらった」
「自分は完全にお客さまだった」
「あの人たちの場づくりがすごかった」
ではなく、
「俺、やっぱりゲイにモテるんですよ」
として持ち帰ってしまった。
ここで、成功した接客が、浅い語りによって消費されてしまった。
もし彼が、
「いや、モテたというより、完全に遊んでもらったんだなあと」
「ママたちの場の作り方とかトークは、とても学びになった」
「こっちは本気にしちゃったけど、たぶん全部見透かされていた」
と語っていたら、印象はまったく違ったと思う。
でも、そうはならなかった。
だから今回の動画は、松井ケムリ氏のゲイ人気を上げたというより、むしろ、ゲイ人気という幻想を壊してしまったように見える。
彼は、
「かわいいノンケ男性」
から、
「ゲイモテを自覚し、公言し、トークのネタにしてしまったノンケ男性」
に変わってしまった。
これは、かなり大きな変化だ。
もちろん、お笑い芸人としては、エピソードトークの一つなのかもしれない。
番組としては面白かったのかもしれない。
実際、コメント欄の多くも好意的だった。
でも、ゲイモテ対象としての格は、かなり落ちたと思う。
それまで彼は、隠れた名店だった。
分かる人だけが分かる、少し高級な、内輪の審美眼で楽しむ対象だった。
でも、自分で「通に人気なんですよ」と言い始めた瞬間、店の格は変わる。
メゼババやTACUBOのような名店だったものが、
急に「SNSで話題!ゲイに大人気!」というノボリを立てた店になってしまった感覚。
サイゼリヤは美味しい。
私も大好きだ。
でも、サイゼリヤに入るときに「隠れた名店に行く」感覚はない。
松井氏の魅力そのものが完全に消えたわけではない。
でも、希少性、神秘性、無自覚さ、内輪性は失われた。
ほんのりあった「もしかしたら…」も消えた。
ノンケ男性という酸っぱいブドウは、もともと苦い。
それでも、遠くから眺めるぶんには、甘い夢でもあった。
けれど、そのブドウが自分でこちらの前に出てきて、
「ほら、こういうの好きなんでしょ?」
と揺れ始めたら、話は変わる。
それはもう、こちらが勝手に夢を見ていた酸っぱいブドウではない。
こちらの欲望を知り、それを自分のネタに変換したブドウである。
やはり、酸っぱいブドウを本人が揺らしたことは、マイナスだったと思う。
ファンタジーは、本人が説明し始めた瞬間に商品になる。
商品になった瞬間に、信仰ではなくなる。
今回の動画で、私が感じた違和感は、たぶんそこにあった。

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