「心を情報源に」という、究極のセルフ・エコーチェンバー
それって、現実逃避ですよね
雑栗わかる氏のポストを見た。
情報源を外のニュース、SNS、テレビにするのではなく、自分の心にする。
一見すると、いいことを言っているように見える。
たしかに、外のニュースやSNSやテレビばかり見ていると、心が疲れる。
怒り、不安、比較、嫉妬、焦り、絶望がどんどん流し込まれてくる。
だから、外側の情報に振り回されすぎず、自分の心を見つめることは大切だと思う。
でも、少し考えると、やはり変な言い方だと思った。
情報源は、基本的に外部にある。
天気は、自分の心に聞いても分からない。
災害情報も、自分の心に聞いても分からない。
法律、税金、医療、経済、戦争、感染症、行政制度、公共交通の運行状況も、自分の心に聞いても分からない。
外の世界について知るためには、外の情報が必要である。
一方で、自分の心が教えてくれるのは、外の世界そのものではない。
自分は何に不安を感じるのか。
何に違和感を持つのか。
何に惹かれるのか。
何を大事にしたいのか。
何を苦しいと感じるのか。
そういう「反応」である。
だから、正確に言うなら、
「情報源を自分の心にする」
ではなく、
「外の情報を受け取ったうえで、自分の心の反応も大切にする」
ではないかと思う。
心は情報源ではない。
心は反応である。
ここを混ぜると、少し危うい。
この界隈では、よく「自分軸」「本当にやりたいこと」「自分の声を聞く」「使命」みたいな言葉がありがたがられる。
それ自体は悪くない。
親や学校や会社や世間の価値観だけで生きると、人は苦しくなる。
自分が何を嫌がっているのか、何に惹かれているのか、何を大事にしたいのかを見つめることは大事だと思う。
でも、「本当にやりたいこと」を掘れば、必ず善良で美しい宝石が出てくる、という前提はかなり怪しい。
人間の内面には、きれいなものだけが入っているわけではない。
働きたくない。
責任を取りたくない。
楽をしたい。
注目されたい。
誰かを見返したい。
自分だけ特別扱いされたい。
嫌いな人を罰したい。
面倒なことは誰かにやってほしい。
そういうものも、普通に入っている。
むしろ、内面から自然に湧き上がるものの多くは、社会的にはそのまま出すと困るものなのではないかと思う。
なぜなら、社会はかなりの部分、みんなが「本当はやりたくないこと」を分担し合うことで成り立っているからだ。
ゴミを集める。
下水を処理する。
道路を直す。
夜勤をする。
介護をする。
苦情対応をする。
税務処理をする。
書類を作る。
時間を守る。
順番を待つ。
人を傷つけないように我慢する。
誰もが全部をワクワクしながらやっているわけではない。
それでも、誰かがやっている。
だから社会が回っている。
飼い犬のしつけを考えると分かりやすい。
犬は本来、好きなところでトイレをしたいかもしれない。
好きなものを齧りたいかもしれない。
餌を漁りたいかもしれない。
散歩中に好きな方向へ走りたいかもしれない。
気に入らないものに吠えたいかもしれない。
怖ければ噛みたいかもしれない。
それが犬の「本当にやりたいこと」かもしれない。
でも、それを全部尊重したら、その犬は人間社会の中で愛されにくくなる。
むしろ、犬自身の生活も狭くなる。
だから、人間は犬をしつける。
それは犬を支配するためだけではなく、犬が人間社会の中で安全に、長く、愛されて生きられるようにするためでもある。
人間の子どもも似ている。
子どもに、最初から「本当に何をしたいですか」とお伺いを立てるわけではない。
幼稚園に行かせる。
学校に行かせる。
読み書きを覚えさせる。
時間を守らせる。
人を叩かないよう覚えこませる。
順番を待たせる。
最低限の社会の型を身につけさせる。
最初は嫌でも、ある程度は型を学ぶ必要がある。
ここで思い出すのが、「守・破・離」である。
まず、守る。
型を身につける。
次に、破る。
型の意味を理解したうえで、状況に応じて崩す。
最後に、離れる。
型を身体化したうえで、自分なりの道に進む。
「自分の心に従う」とか「本当にやりたいことをやる」というのは、本来この「離」に近いものだと思う。
でも、「離」は「守」と「破」のあとに来る。
最初から「離」だけをやっている人は、自由なのではなく、ただ自分だけのルールで動いているだけかもしれない。
それは、その人しか参加していない競技で世界一を名乗るようなものだ。
吉田沙保里さんが霊長類最強なのは、レスリングという競技があり、ルールがあり、型があり、相手がいて、その中で圧倒的に強かったからである。
型を身につけたうえで、自分の技を磨き、他を寄せつけなかった。
だから強い。
型を知らない人が、ただ好き勝手に突っ込んでも、それは技ではない。
ただの突進である。
バドミントンも同じだと思う。
基礎フットワークを知らない。
ラケット面を作れない。
シャトルの軌道を読めない。
相手の位置を見られない。
配球の意味が分からない。
その状態で「自分らしいプレー」をしても、ただのミスになりやすい。
守があり、破があり、その先に離がある。
そこではじめて、その人らしいプレースタイルが立ち上がる。
だから、「本当にやりたいこと」を最初から掘り起こして、そのまま従えばよい、という話にはかなり疑問がある。
そもそも「やりたいこと」は、本当に心の奥底に眠っている純粋な核なのだろうか。
子どもの頃、近所の小さな文房具屋に行くのが好きだった。
かっこいいシャーペンが欲しかった。
買ってもらえるのは300円くらいのものだったけれど、製図用の1本1,000円もするシャーペンが、子どもにとっては破格の宝物に見えた。
欲しくてたまらなかった。
でも、大人になった今、シャーペンなんてAmazonでもデパートでもいくらでも買える。
1本1,000円でも、別に買えない金額ではない。
しかし、もう欲しくならない。
このことを考えると、「やりたいこと」や「欲しいもの」は、対象そのものだけではなく、対象との距離によって生まれている気がする。
手に届きそうで届かない。
見えているけれど買えない。
いつか欲しい。
でも今は無理。
その距離が欲望を作る。
東京に住んでいる人が、あまり東京タワーに登りたがらないのも似ている。
地元民が、地元の観光名所をありがたがらないこともある。
いつでもできることは、あまり「やりたいこと」にならない。
人間の「やりたいこと」は、快不快や本能だけではない。
今ここにないものを想像できる力によって生まれる。
もっと背が高かったら。
もっと美しかったら。
もっと自由に働けたら。
もっと才能を発揮できたら。
もっと違う人生だったら。
そうやって、人間は「不足のないところに、不足を生み出す」ことができる。
それは想像力の力でもある。
しかし、同時に厄介でもある。
「韓国アイドルのような顔になりたい」とか、「もっと自分らしく独立して、好きなことで社会の役に立ちたい」とか、そういう願いは、本能そのものではない。
社会、文化、SNS、比較、時代の空気が作った欲望でもある。
もちろん、作られた欲望だから偽物だ、とは言い切れない。
人間はそもそも文化の中で欲望する生き物だからだ。
でも、「心の声を聞く」と言うとき、その声を発している「心」自体が、すでに外部情報の沈殿物であることは忘れない方がいいと思う。
親の言葉。
学校の評価。
受験競争。
SNSで見た理想像。
仕事観。
成功者モデル。
スピリチュアル界隈の言葉。
自己啓発の物語。
「好きなことで生きる」という時代の空気。
そういうものが心の中に積もっている。
だから、心の声を聞いているつもりでも、実は、社会から与えられた「望ましい本心モデル」を、自分の本心だと思っているだけかもしれない。
昔なら「いい学校に行き、いい会社に入り、家庭を持つ」が望ましい人生モデルだった。
今は、それに対抗する形で、例えば「会社を辞め、好きなことで生き、自分らしく発信し、社会に貢献する」が新しい望ましい本心モデルになっていたりする。
でも、どちらも外から来たモデルである。
「自分軸」にも型がある。
「本音」にも流行がある。
「使命」にもテンプレートがある。
そう考えると、「本当の自分」は、社会に汚されていない美しい核として心の奥底に眠っている、というより、外部情報の層が何枚も重なった地層のようなものに見えてくる。
玉ねぎの皮を剥くように、「これは親の声ではないか」「これは社会に刷り込まれた価値観ではないか」「これは承認欲求ではないか」「これは疲労ではないか」と剥いていくことはできる。
でも、どこまでも剥いた先に、宝石のような「本当の自分」がいるとは限らない。
物語や理屈を剥がし、集団の中で愛されたいという情緒を剥がし、社会的な欲望を剥がしていくと、最後に残るのは、もっと原始的なものかもしれない。
息をしたい。
痛いのは嫌。
暑いのは嫌。
寒いのは嫌。
怖いのは嫌。
空腹は嫌。
安全でいたい。
それは悪いものではない。
生き物として当然の土台である。
しかし、それを「魂の使命」などと呼ぶのは、盛りすぎではないかと思う。
だから、「心を情報源にする」より、むしろ「身体を情報源にする」方が、ずっと有用なのではないかと思う。
昔の人が「体からのお便り」と呼んだ大便や小便をチェックする。
腸の調子を見る。
暴飲暴食を避ける。
腹八分目にする。
伝統的で素朴な食事を心がける。
肩こりや眼精疲労を放置しない。
夜にカフェインを飲まない。
眠いなら寝る。
朝のだるさを見る。
呼吸の浅さに気づく。
こういう積み重ねの方が、「心の声を聞く」より、よほど現実を変えるかもしれない。
なぜなら、身体はかなり正直だからだ。
「本当の私はもっと自由に生きたい」と心が言っていても、身体は、
「昨日の夜更かしで寝不足です」
「カフェインで眠れていません」
「胃腸が荒れています」
「スマホの見すぎで目が限界です」
「運動不足で肩と腰が固まっています」
「まず寝てください」
と言ってくる。
これは強い。
心の声は物語を作る。
身体の声は現実を知らせる。
もし「心の声」が、とても有用で従うべき価値がある指針だったとしても、身体がついてこなければ現実は変えられない。
やる気が出ない。
体力が続かない。
行動できない。
判断が鈍る。
人間関係も不安定になる。
だから、現実を変えるには、まず身体が現実に耐えられる必要がある。
引き寄せや現実創造の界隈では、なぜか「思考を書き換える」「潜在意識を変える」「脳をハックする」「目覚める」みたいな話になりがちである。
強い幻覚体験や薬物的なショートカットで、一気に何かを変えようとする話も出てくる。
でも、目覚めるとは何に目覚めるのだろう。
寝不足で、腸が荒れていて、肩が凝っていて、眼精疲労があって、呼吸が浅い人が、いきなり宇宙に目覚めても、明日の朝の体調はたぶん悪い。
一方で、ポリヴェーガル理論のような身体性に基づくアプローチは、少なくとも方向性としては地に足がついているように感じる。
細かい理論の正確さは私には分からない。
ただ、「心が悪い」「波動が低い」「魂が目覚めていない」ではなく、「身体が安全を感じているか」「神経系が緊張しっぱなしではないか」「人との関係の中で安心できているか」を見る姿勢は、かなり現実的だと思う。
心を変えようとする前に、身体が安全だと感じられる条件を整える。
この方が、よほどまともに思える。
さらに言えば、本当に強烈に現実を変える手法は、社会がそのまま放置しないのではないかとも思う。
もし、ある手法によって人々が本当に一斉に「目覚めて」しまい、仕事や納税や家庭や社会的義務から離脱してしまうなら、社会の側は困る。
だから、強い効果を持つものは、禁止されたり、危険視されたり、あるいは社会に都合のよい形に無害化されるのだと思う。
例えば仏教の瞑想は、本来、世俗から距離を取る方向を持っていたはずである。
それがビジネス界隈に入ると、「マインドフルネス」として、疲れた頭をリフレッシュし、集中力を高め、よりよく働くための技術になる。
世俗から離れる技法が、よりたくさん世俗で働くための技法に変換される。
社会は、危険なものを取り込んで、無害化するのが上手い。
そう考えると、引き寄せ、ワクワク、丸い社会、脱ピラミッドといった思想が広く流通できているのは、実際にはそれほど現実を改変する力を持っていないからではないか、と思い始めた。
本当に人々が働かなくなり、税も払わなくなり、制度から離脱し、現実社会が壊れるほどの力があるなら、もっと強く警戒されるはずである。
でも実際には、多くの場合、それらは現実を変えるというより、現実の見え方を変える。
嫌な仕事はなくならない。
税もなくならない。
医療も物流も下水処理も必要である。
でも、「私はワクワクで生きている」「お金はないのと同じ」「ピラミッドから抜けた」と解釈することで、内面の苦しさが少し変わる。
それはそれで救いになることはある。
しかし、現実を本当に変えているわけではない。
むしろ、現実への不満を、個人の世界観の中で吸収しているだけかもしれない。
だから、やはり私は「心を情報源にする」という言葉には慎重でありたい。
心は大事だ。
自分の感覚を無視してはいけない。
外の情報や世間の価値観だけで生きると、人は壊れる。
でも、心だけを情報源にしてもいけない。
心は、外から来た情報の地層である。
心は、欲望や不足や比較や疲労や物語の反応である。
そして、その心は、しばしば「今ここで果たすべき義務」よりも、「いつかどこかの素敵な自分」を甘く見せてくる。
だから、心の声を聞くなら、まず身体の声も聞いた方がいい。
宇宙銀行より、睡眠である。
現実創造より、腹八分目である。
目覚めより、肩こりと眼精疲労のケアである。
これは地味だ。
全然キラキラしていない。
ワクワクもしにくい。
でも、たぶんこの地味さの方が、ずっと現実に近い。
情報は外から来る。
心はそれに反応する。
身体は、今の自分の状態を知らせる。
だから大事なのは、外の現実と、心の反応と、身体の状態との間で、どう折り合いをつけるかである。
それが本当の意味で、自分を大切にするということなのではないかと思う。

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