雑栗わかる氏の「お金のない丸い社会」という言葉について考えていた。
最初は、単に「お金のない社会」という思想の粗さが気になっていた。
欲しいものを我慢せず買える。
好きなことをしてお金が入ってくる。
だから、その人の世界には実は「お金」は無いのと一緒。
お金の無い丸い社会は、こういう形でも達成できる。
そういう趣旨のポストを見て、まず思ったのは、
「いや、買えるならお金あるじゃん」
だった。
商品があり、価格があり、売る人がいて、買う人がいて、決済があり、物流がある。
その時点で、お金は普通に存在している。
だからこれは、「お金のない社会」ではなく、
「お金を気にしなくてよい主観状態」なのではないかと思った。
そこから考えていくうちに、雑栗わかる氏の「丸い社会」は、社会設計というより、主観的な疑似FIREなのではないかと思った。
本来のFIREとは、資産を作り、労働から自由になることを目指す考え方である。
一方、雑栗氏の言う世界は、実際に十分な資産を作るというより、欲望を小さくしたり、比較対象を閉じたり、好きなことをしている感覚を持つことで、主観的に「お金に縛られていない」と感じる状態に近い。
その主観疑似FIREをした人たちが集まる。
「お金じゃないよね」
「ワクワクだよね」
「ピラミッドではなく丸だよね」
という共通言語ができる。
そして、その内輪を「社会」と呼ぶ。
でも、それは本当に社会なのだろうか。
私には、むしろそれは「丸い社会」ではなく、「丸い社会ごっこ」に見える。
もっと言えば、村である。
クリサロ村である。
クリサロ村には、村長がいる。
村の言葉がある。
村の価値観がある。
村民がいる。
そして、村の外側には「支配者」「ピラミッド社会」「税金」「公務員」「搾取構造」という仮想敵が置かれる。
これは、かなり古典的な共同体形成のやり方だと思う。
人類は昔から、外敵を設定して集団をまとめてきた。
村をまとめるには、外の敵がいると分かりやすい。
国をまとめるには、敵国がいると分かりやすい。
宗教共同体をまとめるには、異端、邪宗、悪魔、サタンがいると分かりやすい。
政治運動をまとめるには、既得権益、支配者、売国奴、反革命分子がいると分かりやすい。
クリサロ村も、構造としてはそれに近い。
「支配者が搾取している」
「税金は陰謀」
「公務員は無駄遣いしている」
「ピラミッド社会が人間を苦しめている」
そう語ることで、村の内側はまとまりやすくなる。
自分たちは目覚めている。
外側の人たちはまだ分かっていない。
自分たちは丸い社会にいる。
外側はピラミッド社会に支配されている。
そういう物語ができる。
しかし、これは彼ら自身が批判している「分断」と同じ構造でもある。
陰謀論的な語りでは、よく「支配者は分断をあおる」「分断して統治するのは支配の基本だ」と言われる。
でも、「支配者/目覚めた人」「ピラミッド社会/丸い社会」「洗脳された人/分かっている人」という分断を作っているなら、それもまた、分断によって共同体をまとめる技術である。
つまり、支配者という仮想敵は、単に外部を攻撃するためにあるのではない。
それは、クリサロ村の内側を守るための壁でもある。
現実の問いが入ってこないようにするための結界でもある。
なぜなら、「丸い社会ごっこ」は、外部社会の制約に接続した瞬間に急に弱くなるからだ。
税はどうするのか。
医療はどうするのか。
物流はどうするのか。
法律はどうするのか。
食料生産はどうするのか。
下水処理はどうするのか。
介護はどうするのか。
災害対応はどうするのか。
苦情処理はどうするのか。
こうした問いに向き合うと、「丸い社会」は社会設計としての説明責任を負わなければならない。
だから、外部社会を設計課題として見るのではなく、敵として見る。
税金を、公共サービスの財源としてではなく、支配者の搾取として見る。
公務員を、制度を運用し、住民対応をし、災害時に動く人としてではなく、無駄遣いする存在として見る。
国家を、問題も抱えつつ公共機能を担う装置としてではなく、ただの搾取装置として見る。
そうすれば、「では丸い社会では誰がそれを担うのか」という問いを避けることができる。
しかし、ここで皮肉なことに気づいた。
現実の自治体の方が、むしろ「丸い」のではないか。
たとえばクリサロ村は、月額1,480円である。
年額にすると、1,480円×12か月で17,760円になる。
これは、現実の住民税の最低額より3倍以上高い。
もちろん、金額だけで単純比較するものではない。
自治体の税とオンラインサロンの会費は性質が違う。
しかし、象徴的ではある。
現実の自治体は、税を取る。
しかし、その税は道路、福祉、防災、教育、行政サービスなどに使われる。
一方、クリサロ村の会費は、交流、学び、オフ会、限定動画などへの参加権である。
さらに重要なのは、現実の自治体は、お金を払えない人を住民から排除しないということだ。
収入がない人がいる。
非課税世帯がある。
生活保護を受ける人がいる。
現金給付の対象になる人がいる。
そういう人であっても、市民であることは消えない。
道路を使える。
救急車を呼べる。
図書館を使える。
選挙権がある。
災害時には避難所に入れる。
福祉相談も受けられる。
むしろ、支払えない人ほど支援対象になることすらある。
ところが、クリサロ村は違う。
月額1,480円を払えなければ、基本的には参加できない。
オンライン決済が未払いとなれば、サロンへの接続も即遮断される。
村民でいるためには、毎月お金を払い続けなければならない。
つまり、現実の自治体は、税を払えない人も住民として扱う。
しかし、「お金のない丸い社会」を語るクリサロ村は、会費を払えない人を村民として扱わない。
これはかなり皮肉である。
国家の税は搾取。
でも村長への月額課金は循環。
公務員は無駄遣い。
でもサロン運営への支払いは学び。
自治体はピラミッド。
でも月額課金制のオンライン村は丸い社会。
本当にそうなのだろうか。
私は、むしろ現実の自治体の方が、はるかに丸いのではないかと思う。
もちろん、現実の自治体は完璧ではない。
無駄もある。
非効率もある。
不公平もある。
住民対応にも限界がある。
制度が冷たく見えることもある。
しかし、それでも自治体は、好きな人だけを集めた内輪ではない。
考え方が違う人もいる。
収入がある人もない人もいる。
高齢者も子どももいる。
障害のある人もいる。
外国人もいる。
税を多く払う人も、ほとんど払えない人もいる。
役所に感謝する人も、文句を言う人もいる。
それでも、全員を住民として扱う。
これこそ、かなり「丸い」ことではないか。
クリサロ村の丸さは、内輪の丸さである。
同じ価値観の人たちが集まり、同じ言葉を使い、同じ世界観を共有する丸さである。
一方、自治体の丸さは、異なる人たちを同じ地域の住民として引き受ける丸さである。
払える人も、払えない人も。
好きな人も、嫌いな人も。
目覚めている人も、目覚めていない人も。
ワクワクしている人も、していない人も。
それでも、同じ道路を使い、同じ水道を使い、同じ救急車を呼び、同じ避難所に入る。
この丸さは、地味である。
夢がない。
キラキラしていない。
ワクワクもしにくい。
しかし、現実の重さがある。
だから、私は思う。
クリサロ村がやっているのは、未来の社会設計ではない。
原始的な仮想敵を軸にした囲い込みである。
「支配者」を作り、外側を悪にし、内側の共同幻想を守る。
その構造は、むしろかなり古い。
一方で、現実の自治体は、矛盾だらけで、不完全で、面倒で、時に冷たく、非効率でもある。
しかし、そこには異質な人を同じ地域の住民として扱う仕組みがある。
会費を払えない人を追い出す村よりも、税を払えない人も住民として扱う自治体の方が、よほど丸い。
「丸い社会」を語るなら、まずこの現実の丸さを見た方がいい。
それは、ワクワクする言葉ではない。
しかし、道路を直し、水道を守り、生活保護を出し、救急車を走らせ、災害時に避難所を開ける。
この地味な丸さの上に、私たちの現実は乗っている。
だから私は、こう思った。
クリサロ村は、丸い社会ではない。
丸い社会ごっこである。
そして、本当に丸いものは、意外にも、私たちが普段「ピラミッド」と呼んで馬鹿にしている現実の自治体の側にあるのかもしれない。

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