勧められて、『DIE WITH ZERO』を紹介する動画を一緒に見た。
最初は「本当にそのとおりだ。これから思い出をたくさん作っていきたい」と思った。
人生には期限がある。親が元気なうち、子どもが幼いうち、自分の体が動くうちにしかできないことがある。「もう少しお金が貯まってから」「仕事が落ち着いてから」と先延ばしにしているうちに、その選択肢自体が消えてしまう。
動画では、人生で最も重要な仕事は「思い出作り」であり、人生は経験の合計であると説明されていた。また、資産を増やす時期をいつまでも続けず、まだ体力のある45歳から60歳頃には、意識的にお金を使う段階へ移るべきだという。
ここまでは、よく分かる。
けれど、なぜか私は、素直に感動し切れなかった。
考えていくうちに、その違和感の正体が少しずつ見えてきた。
この思想は、
大切なことをし損ねたまま、死にたくないですよね。
→はい。大切な経験には、お金が必要なこともありますよね。
まあ、はい。では、死ぬときにお金が残っていたら、その分だけ大切な経験をし損ねたと判定します。
……なぜ?
という論理になっているのではないか。
「大切なことをし損ねるな」から、「残高をゼロにせよ」までは、実はつながっていない。
お金を残した人は、不幸だったのか
動画には、孫から100万円を贈られたものの、ほとんど使わずに亡くなったおばあちゃんの話が出てくる。
その話は、
年を取ると、体力も気力も衰えてお金を使えなくなる。
だから、もっと早くお金を渡し、若いうちに経験へ変えたほうがよい。
という教訓として語られる。
しかし、おばあちゃんは本当に、100万円を使えなかったことを後悔していたのだろうか。
おばあちゃん自身が、あと10年は生きると思っていたなら、100万円は月に8,000円ほどの差額でしかない。実は、医療費や介護費、家電の故障などで、簡単になくなってしまう金額だ。高齢になれば、失った100万円を働いて取り戻すことも難しい。
あるいは、おばあちゃんの本当の望みが、気候のよい土地の豪華な高齢者向けの施設で暮らすことだったなら、100万円では少なすぎたのかもしれない。
もっと別の可能性もある。
孫からお金をもらえたこと自体がうれしかった。
「何に使おうかね」と孫と話す時間が楽しかった。
通帳を見るたびに、「この100万円は、あの子が私を気にかけてくれた証しだ」と感じていた。
使ってしまうと、その関係まで消えてしまうようで、残しておきたかったのかもしれない。
その場合、100万円は使われなかったのではない。安心や愛情や会話を生むものとして、すでに使われていたのである。
孫が、おばあちゃんの誕生日にクッキーを10枚焼いたとする。
おばあちゃんは、遊びに来た孫に1枚を食べさせ、残りを食べ切らずに亡くなった。
そこから、
老人になると食欲が落ちる。若いうちに食べたいものを食べよう。
という人生訓を作ることはできる。
けれど、おばあちゃんにとって大切だったのは、10枚を胃袋に収めることではなく、孫が焼いてくれたことや、孫と一緒に1枚を食べた時間だったかもしれない。
残ったクッキーの枚数から、本人の幸福を測ることはできない。
残った預金額から、本人の人生のやり残しを測ることもできない。
私が一番引っかかったのは、ここだった。
贈り手が望んだ使い方をしなかった相手を、不幸だったことにしてしまう。
「本当はもっと楽しい経験ができたのに、使わずに死んだ。もったいない。ああいう人生は不幸だ」と、他人が死者の残高を見ながら、本人が望んだかどうかも分からない別人生を並べ始める。
本人の幸福を尊重するはずの思想が、いつの間にか、本人の幸福を外側から上書きしている。
経験の配当は、楽しい思い出だけではない
『DIE WITH ZERO』の「思い出の配当」という考え方自体は面白い。
若い頃の旅行を何度も思い出し、人に語り、そのたびに幸福を得る。経験は一度きりの消費ではなく、その後も配当を生むという考え方である。
ただ、複利を生むのは、楽しい思い出だけだろうか。
子どもの頃に泣きながら続けた習い事の基礎練習。
嫌々ながらもやり遂げた勉強。
苦手な仕事に試行錯誤し、少しずつ身につけた技術。
当時は苦労にしか見えなくても、後の人生で能力、自己信頼、判断力、思想、選択肢となって配当を生む経験がある。
一流のスポーツ選手にとって、少年時代の反復練習は、楽しい「ハレ」の思い出ではなかったかもしれない。しかし、その経験が次の練習や試合の質を高め、さらに新しい能力を獲得しやすくする。
経験一般に複利があるのであって、旅行や豪華な食事による思い出は、その一部でしかない。
しかも、非日常的な経験には慣れもある。
初めて行った近場の旅行は強い思い出になる。次は隣県、その次は北海道、沖縄、海外、秘境、高級ホテルと、同じ刺激を得るために、より遠く、より派手で、より高価な経験が必要になるかもしれない。
チェーン店の牛丼だって、日本人には日常の食事だが、初来日の外国人には一生忘れられない味になることがある。
思い出の強さを決めるのは、使った金額ではない。新鮮さ、意味、誰といたか、そのときの自分が何を感じたかである。
「経験にお金を使おう」が強くなりすぎれば、老後資金を貯めるために働く人生から、次の思い出商品を買うために働く人生へ移るだけかもしれない。
人生の収支は、折れ線グラフの傾きを調整すること
結局、これは収支バランスの話なのだと思う。
今使って自分や家族を喜ばせるお金。
将来の安心や自由のために残すお金。
病気や失業に備えるお金。
誰かへ渡すお金。
私たちはそれぞれ、資産の折れ線グラフの傾きを調整している。
今、毎月の収支を少し支出側へ傾けるか、貯蓄側へ傾けるか。その小さな角度の違いが、10年、20年後には大きな差になる。
『DIE WITH ZERO』は、
使いすぎる危険ばかりを恐れていませんか。備えすぎて、今しかできないことを失う危険もありますよ。
と教えてくれる。
これは有用な指摘だと思う。
ただし、「どこまで支出側へ傾けてよいのか」を具体的には教えてくれない。
寿命も、医療費も、介護費も、物価も、投資成績も分からない。寿命が正確に分かるなら、多くの人がもっとゼロに近づけられるだろう。しかし現実には、ゼロを狙って早く資産が尽きる損失と、死後に少し余る損失は同じではない。
死後に残ったお金は、生前にも不要だったお金ではない。
不確実な未来を生きるための安心や余白として、毎日働いていたかもしれない。
張り手としての「DIE WITH ZERO」
だから私は、『DIE WITH ZERO』という言葉を、正しい資産残高を示す答えではなく、強い張り手のようなものだと受け取ることにした。
貯めることばかり考え、大した目的もなく働き続けている人の頬を、
バチーン!
備えすぎて失う人生もあるぞ!
と一度叩く。
その刺激によって、
親と旅行できるのは、あと何年だろう。
この残業は、本当に必要だろうか。
いつまで資産を増やし続けるつもりなのだろう。
今しかできないことを、無意識に延期していないだろうか。
と考えさせる。
その張り手には意味がある。
しかし、張り手そのものが、「正しい生き方そのもの」を示しているわけではもちろんない。
私がこの思想から受け取りたいのは、「ゼロで死ね」ではない。
もっとお金を使え、でもない。
自分が無意識に延期している、期限つきの大切なものを、まだ間に合ううちに一つだけ現在へ戻せ。
ということなのだと思う。
備えすぎにもリスクがある。
使いすぎにもリスクがある。
どちらにどれだけ傾けるかは、死後の通帳を見た他人が採点することではない。
自分の人生を生きている本人が、自分の幸福と安心を感じながら、決めていくしかないのだ。

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