以前、バドミントンをしていた頃に、少し引っかかっていたことがある。
大人たちが真剣に練習しているところへ、誰かが子どもを連れてくることがあった。
もちろん、子どもが悪いわけではない。親が子どもを連れてくる事情もあるだろうし、子どもがいても楽しめる集まりなら、何の問題もない。
ただ、もともと大人同士で真剣に練習するために集まっていた場所だと、話は少し違ってくる。
バドミントンは、相手がいて初めて成り立つ練習が多い。
例えば、自分の練習相手が100の実力を持っていたとしても、子どもの様子が気になって集中力が80になってしまえば、自分は100の練習ができなくなる。
子どもを連れてきた人が「自分で面倒を見ているから大丈夫」と思っていても、周囲の人たちがまったく影響を受けないわけではない。
子どもが泣けば気になるし、危なくないかと注意も向ける。練習の合間には、子どもに声をかけたり、かわいがったりする雰囲気にもなる。
いつの間にか、大人たちが子どもに合わせて行動するようになる。
ここで少し困るのが、そうした変化を嫌がりにくいことだ。
子どもをかわいいと思わなければならないわけではないし、子どもに配慮することと、子どものいる場所を積極的に楽しむことは別のはずだ。
しかし、「今日は子どもがいるから練習に集中できないなあ」と口にすれば、何だかこちらが心の狭い人のように見えてしまう。
だから何も言わず、周囲に合わせる。
すると、子どもを連れてきた人からすれば、何の問題もなく受け入れてもらえたように見える。
でも、実際には、ほかの参加者が自分の目的を少しずつ諦めているだけかもしれない。
不思議なのは、誰も「今日から子ども向けの集まりにしましょう」と決めたわけではないことである。
ルールを変更したわけでもない。
それなのに、一人の子どもが加わっただけで、周囲の大人たちの振る舞いが変わり、集まりの性質まで変わってしまう。
大人の能力が下がったわけではない。ただ、その能力を十分に発揮できる環境ではなくなったのである。
こう考えると、集まりの目的というものは、案外もろいものなのかもしれない。
何のために集まっているのか。
誰が、何に配慮することを求められているのか。
そして、その配慮によって、誰が何を諦めているのか。
子どもが一人増えただけ。
そう思っている人もいるだろう。
けれども、そこにいた別の誰かにとっては、一人増えたのではなく、集まりそのものが別のものになってしまったのかもしれない。

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