ここ数日、頭の中でバラバラに散らかっていた二つの思考が、不意に一本の線でつながる瞬間があった。
一つは、オリンピック選手がOnlyFansで成人向けコンテンツを販売しているという現象について考えていたこと。もう一つは、「エビデンスとは何か」「科学的とは何か」を突き詰めるうちに、堀大輔氏の睡眠論や、TikTokにはびこる煽り配信に行き着いたこと。
アスリートの身体の商品化と、情報空間における疑似科学やエンタメ。最初はまったく無関係だと思っていたこの二つの事象は、深く掘り下げていくと同じ一つの根源的な問いに行き着いた。 それは、「現代社会は、いったい人間の何に対して報酬を与えているのか」という問題である。
「価値を生んだ人」と「お金を受け取る人」は同じではない
最初に「OnlyFansで稼ぐオリンピアン」の存在を知ったとき、私は素朴に驚いた。世界トップレベルまで己の肉体を鍛え上げたアスリートが、本人名義で踏み込んだ成人向けコンテンツまで販売する。「そこまでやるのか」と。 しかし思考を進めるうちに、成人が自身の身体を、それを望む大人に向けて透明な条件で販売すること自体は、直ちに社会悪とは呼べないと思い直した。
むしろ私の目を引いたのは、その「価格の付き方のバグ」のような構造だった。 五輪選手になるには、十数年に及ぶ血を吐くような鍛錬、厳格な食事管理、常に付きまとう怪我のリスク、そして人生の大部分を競技に捧げることが要求される。しかし、それだけの犠牲を払って「世界11位」になったとしても、莫大な富が約束されるわけではない。 ところが、その過酷な競技生活によって作り上げられた身体を「別の市場」へ持っていくと、値札の付き方が一変する。
重量挙げの市場では、「何キロのバーベルを挙げられる身体か」が価値になる。 しかしOnlyFansの市場では、「お金を払ってでも見たい身体か」が価値になる。
同じ一つの身体なのに、市場が変わればルールが変わる。しかもそこでは、競技能力とは無関係な容姿、性的魅力、SNSでの発信力、さらには「あのオリンピアンがそこまで見せるのか」というギャップ(希少性)までもが価格に上乗せされる。 社会は、費やされた「努力の量」に対して律儀にお金を払っているわけではない。市場にあるのは、身も蓋もない「需要の有無」だけなのだ。
さらに資本主義的な視点で見れば、より残酷な構造が浮かび上がる。 スター選手が中間組織(競技団体など)を飛び越え、ファンから直接課金を受け取れるようになったことは、個人の自由という意味では素晴らしい。しかし、スター選手が個人市場で利益を独占すれば、本来なら2番手・3番手の選手や若手育成に回るはずだった「富の再分配」は消滅する。 そして最終的に最も大きな利益をノーリスクで吸い上げていくのは、汗を流して身体を作る選手でも、お金を払うファンでもなく、その間にある「料金所(プラットフォーム)」を所有している者なのだ。
未知には「高さ」がある
ここまでの考察が、なぜか「知識と科学」の話へスライドしていった。 日常にあふれる「エビデンス」という言葉の曖昧さを考えているうちに、科学とは何かという命題にぶつかったのだ。
科学とは、決して「絶対に間違わない知識の集合体」ではない。観察し、仮説を立て、測定し、反証を試み、別の誰かが再現し、間違いが見つかれば潔く修正する。この「自己修復機能」こそが科学の最大の強みである。 私はこの科学の営みを、一つの巨大な「岩山」としてイメージするようになった。一つ一つの岩は、過去の観測事実であり、実験結果であり、先人たちが積み上げてきた知見だ。その何百年分もの岩山の頂上で、研究者が「次の未知」に手を伸ばしている。
一方で、平らな地面に一本の旗を突き立てて、「既存の科学は間違っている! ここに新しい真実がある!」と声高に叫ぶ人もいる。 言葉上は、どちらも「まだ完全には解明されていないこと(未知)」を語っている。しかし、未知には高さがある。 科学の最前線にある岩山の上の未知と、平地に立てただけの「まだ証拠のない大胆な仮説」は、同じ「未証明」として横並びにできるものではない。
睡眠に関する異端的な主張(たとえば「訓練次第で極端に睡眠を削れる」といった説)を見ていると、この非対称性がよくわかる。「既存の睡眠科学にも未解明な部分がある」という事実は、「だから私の新説も同程度にあり得る」という証拠にはならない。岩山の頂上から小石が一つ転がり落ちたからといって、平地に突然岩山が出現するわけではないのだ。 本来なら「では、あなたの説を直接支える証拠(岩)を見せてください」と問われるべきなのに、SNSやテレビのエンタメ空間では、これが非常に伝わりにくい。
既存の科学を誠実に説明しようとすれば、「この研究では…」「ただし条件があり…」「限界もあって…」と3分かかる。 対して、それを否定する側は「でも、逆の研究もありますよ」「常識は嘘です」と10秒で言い切れる。 攻撃は10秒、訂正は3分。この時間的非対称性は、現代の情報空間において絶望的なまでの威力を持っている。
真実は積分され、注目は微分される
ここで、OnlyFansの直接課金と、情報空間の直接発信がピタリと重なった。 アスリートが競技団体を飛ばしてファンとつながるように、情報発信者もまた、出版社やテレビ局、学会といった「ゲートキーパー(中間組織)」を飛ばして、世界中のオーディエンスへ直接アクセスできるようになった。
この圧倒的な自由化の果てに、市場は何を評価するようになったのか。そこで行き着いたのが、次のような比喩だった。
真実は積分されるが、注目は微分される。
真実が「確からしい」と社会に認知されるまでには、途方もない時間がかかる。複数の研究、異なる条件での再現、反証の試練。長い時間をかけて独立した検証に耐え抜いたものだけが、信頼という「面積」を広げていく。まさに積分的(蓄積的)なプロセスだ。未来の事実を先取りすることは、どんなにAIが発達しても不可能である。
一方、SNSにおける「注目」の付き方は、まったく異なる。 昨日まで無名だった人間が、たった一つの過激な動画で今日100万人の耳目を集める。そこで評価されるのは、総量(面積)ではなく「今この瞬間、どれだけ急激に数値が跳ね上がったか」という瞬間的な傾き、つまり微分的な変化率である。 100万人のフォロワーがいても、増加(傾き)がゼロになれば「オワコン」と呼ばれる。市場は今、時間をかけて面積を増やす「真実」よりも、瞬間的な傾きを作り出す「注目」に対して、桁違いの大金を支払っているのだ。
エントロピーを増やす方が儲かる社会
TikTokで、配信者同士が「寝ろ」「ばーか」「おまえ」と延々と罵倒し合う切り抜き動画を見た。そこには議論など存在しない。相手を怒らせ、過剰な反応を引き出し、強い言葉を言わせる。その瞬間を切り抜いて拡散し、事件を起こす。対話を構築する知性よりも、対話を破壊する能力の方が手っ取り早く収益化できてしまうのだ。
小学校の教室で、先生の挨拶に対して一人だけ「うるせー、ばーか」と叫べば、その児童はクラスで一番の注目(微分値)を集める。しかし、クラス全員がその「最も儲かる戦略」を採用した瞬間、授業というシステムそのものが崩壊する。個人にとって合理的な生存戦略が、社会全体にとっては致命的な破壊工作になる。
科学のように、ノイズの中から秩序(知識)を作り上げるコストは極めて高い。 対して、文脈を切り取り、極論をぶつけ、怒りを煽り、相手を罵倒して情報空間を散らかすコストは驚くほど安い。つまり、エントロピー(無秩序)を増大させる振る舞いにこそ、強力な金銭的報酬が紐付いてしまっているのが現代なのだ。
そして、ここに生成AIが参入することで事態はさらに加速する。 AIを使えば、専門用語を散りばめた「いかにももっともらしい誤情報(フェイクの秩序)」を、1日1000本単位で大量生産できる。「それらしい情報を作るコスト」はゼロに近づくのに、「それが本当に正しいかを確認するコスト(現実世界の時間)」は全く短縮されない。偽物の生産速度だけが無限に上がり、真実の成熟速度は物理的な時間に縛られたままなのだ。
文明の「報酬表」をどう設計するか
OnlyFansで性を売ることも、TikTokで相手を罵倒することも、SNSで疑似科学を広めることも、倫理的なレイヤーはそれぞれ全く異なる。これらを同列に非難したいわけではない。 しかし、その背景にある「選択関数(アルゴリズム)」の重心が、確実に【真偽】や【社会的価値】から、【エンゲージメント(瞬間的な注目)】へとズレてしまったことは共通している。
人間は、決して愚かではない。社会全体が「こういう行動をすれば、これだけのお金と承認を与えます」という巨大な【報酬表】を突きつけてくれば、それに適応しようとする。 地道に岩山を積む研究者よりも、「常識は嘘だ!」と叫んで旗を立てる人間が何十倍も稼ぐ社会。対話を成立させる知性よりも、「ばーか」と罵倒してエントロピーを増やす人間が何百倍も注目される社会。
この報酬表が何十年も提示され続けたとき、未来の子供たちは何を学習し、どんな能力を伸ばそうとするだろうか。 私たちが直面しているのは、「誰が悪者か」という犯人探しではない。「どんな行動に、どんな報酬を返す社会を設計すれば、私たちは長期的に知識と文化と秩序を維持できるのか」という、文明そのものの存続をかけた問いなのだ。
散らかり続ける情報空間の片隅で、私たちは今、社会の報酬表を根本から書き換える岐路に立たされている。

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