第3回 「魂が選んだ」は、誰のための言葉か(ワクワクは、誰の足場の上に咲いているのか)

第3回 「魂が選んだ」は、誰のための言葉か

前回、私は「生活の中の小さな真実」が、宇宙全体を説明する万能理論へと膨らむ危うさについて書いた。

笑顔でいた方が人間関係はよくなる。
感謝していると心は少し整う。
好きなことをしていると元気が出る。

こうしたことは、生活の知恵としては確かにある。

しかし、そこから一気に、

「宇宙はそういう仕組みになっている」
「波動が現実を引き寄せている」
「思考が現実を創造している」

と断定し始めると、話は急に危うくなる。

その危うさが、もっとも強く現れる言葉の一つが、

「魂が選んだ」

である。

この言葉は、とても不思議な力を持っている。

人生で起きるつらい出来事。
病気。
事故。
貧困。
孤独。
家族との不和。
努力しても報われない時間。
どうして自分がこんな目に遭うのか分からないような経験。

そうしたものに対して、

「これは自分の魂が選んだ経験なのかもしれない」
「この苦しみにも、何か意味があるのかもしれない」
「この人生を通して、自分は何かを学ぶのかもしれない」

と考えることができれば、人は少しだけ耐えられることがある。

理不尽な出来事を、ただの理不尽として受け取るのはつらい。

ただ壊された。
ただ奪われた。
ただ損をした。
ただ運が悪かった。
ただ苦しかった。

そう思うだけでは、心がもたないことがある。

だから人は、そこに意味を置きたくなる。

これは、弱さでもある。
しかし同時に、祈りでもある。

生きていれば、思い通りにならないことばかり起きる。

若さは失われる。
身体は衰える。
病気になる。
大切な人を失う。
努力して手に入れたものが、後になって苦しみの種になることもある。
最悪だと思った出来事が、後になって人生を別の方向へ開くこともある。

まさに、塞翁が馬である。

何が幸いで、何が不幸かは、すぐには分からない。

さらに言えば、この宇宙そのものに意味があるのかどうかも、私たちには分からない。

この世界が何のために存在しているのか。
人間がなぜ生まれ、なぜ苦しみ、なぜ死ぬのか。
人生に最終的な意味があるのか。
死後に何があるのか。
偶然と必然の境界はどこにあるのか。

私たちは、宇宙の中にいる。

宇宙の外側に立って、宇宙そのものの意味を検証することはできない。だから本当は、人生で起きるすべての出来事について、「最終的に意味がある」とも「まったく意味がない」とも、言い切ることはできない。

分からない。

その「分からない」の中で、人は生きている。

だからこそ、人は意味を置く。

この経験にも意味があると思いたい。
この苦しみも、ただの無駄ではなかったと思いたい。
自分の人生は、ただ壊れただけではないと思いたい。

その切実な望みを支えるために、「魂が選んだ」という言葉があるのだとすれば、私はそれを簡単には否定できない。

本人が、自分自身の苦しみに対して、

「これは自分の魂が選んだ経験だったのかもしれない」

と思う。

それは、その人の自由である。

その言葉によって、その人が一日を生き延びられるなら。
その言葉によって、ただの傷に見えていたものを、人生の文脈の中に置き直せるなら。
その言葉によって、自分を責めるのではなく、もう一度立ち上がれるなら。

それは、祈りとして尊い。

しかし、問題はここからである。

その言葉を、他人に向けて使った瞬間に、意味が変わる。

本人が自分に対して、

「この経験は、私の魂が選んだのかもしれない」

と言うのと、第三者が他人に対して、

「それは、あなたの魂が選んだ経験です」

と言うのとでは、まったく違う。

前者は祈りである。
後者は、暴力になりうる。

たとえば、貧困に苦しむ人がいる。

その人が自分自身の人生を振り返り、

「この苦しみから、自分は何かを学ぶのかもしれない」

と思うことは、否定されるべきではない。

しかし、他人がその人に向かって、

「あなたの魂が貧困を選んだのです」
「それはあなたの学びです」
「その経験を通して成長するために生まれてきたのです」

と言ったら、どうだろう。

その瞬間、貧困を生み出している社会構造は見えなくなる。

教育機会の格差。
家庭環境。
住居。
保証人。
学費。
虐待。
障害。
病気。
地域格差。
労働市場。
社会保障。

そうした現実の問題が、すべて「魂の課題」に変換されてしまう。

ある人が病気になったとする。

本人がその病気を抱えるために、

「この病気にも、何か意味があるのかもしれない」

と考えることはある。

けれど、他人が、

「その病気は、あなたの魂が選んだものです」
「あなたの波動が引き寄せたものです」
「その病気を通して、あなたは学ぶ必要があるのです」

と言ったら、そこには何か冷たいものがある。

病気には、医療が必要である。
ケアが必要である。
制度が必要である。
研究が必要である。
生活支援が必要である。
周囲の理解が必要である。

「魂が選んだ」と言えば、それらを問わなくて済んでしまう。

ある人が事故に遭ったとする。

本人や遺族が、長い時間をかけて、

「この出来事にも、何か意味を見つけなければ生きていけない」

と思うことはあるかもしれない。

しかし、第三者が外側から、

「その事故も魂が選んだ経験です」

と言うことは、あまりにも残酷である。

私は、八潮市で起きた道路陥没事故のことを思う。

道路が陥没し、そこを走行していたトラックが巻き込まれた。運転手は、ただ仕事をしていただけである。朝、いつものように車を走らせていたのかもしれない。家族がいたかもしれない。予定があったかもしれない。昼食のことを考えていたかもしれない。今日も仕事を終えて帰るつもりだったはずである。

その人に対して、

「魂が選んだ」

と言えるだろうか。

もし、その運転手に正常な意思能力があったとして、

Aルート:何も起きず、普通に仕事を終えて帰る。
Bルート:道路陥没に巻き込まれ、命を落とす。

この二つを示されたとき、Bを選ぶだろうか。

選ぶわけがない。

それでも「魂のレベルでは選んだ」と言うなら、現実の本人の自由意思はどうなるのか。

本人は選んでいない。
しかし魂は選んでいた。
だから、その出来事には意味がある。

この論理は、とても怖い。

なぜなら、本人の意思を、本人の知らない「魂」という上位レイヤーで上書きしてしまうからである。

現実の本人が「そんなことは望んでいない」と言っても、
「でも魂は望んでいた」
と言えてしまう。

これでは、本人の声はどこにも残らない。

事故、災害、虐待、犯罪被害、戦争、病気、貧困。
すべてに同じ言葉が貼れてしまう。

「魂が選んだ」
「必要な経験だった」
「学びだった」
「カルマだった」

それは、説明として便利すぎる。

便利すぎる説明は、危険である。

なぜなら、どんな現実にも後付けで貼れるからである。

成功した。
魂が望んだから。

失敗した。
魂の学びだから。

貧しく生まれた。
魂がその経験を選んだから。

裕福に生まれた。
豊かさを学ぶためだから。

病気になった。
身体を通して気づくためだから。

事故に遭った。
魂の計画だから。

これでは、何も説明していない。

説明しているように見えて、現実の差異をすべて同じ言葉で包んでいるだけである。

そして、その言葉がもっとも危険になるのは、社会構造の問題を個人の魂の問題に押し戻すときである。

貧困は、魂の課題なのか。
労働搾取は、魂の学びなのか。
道路陥没事故は、魂の選択なのか。
介護の人手不足は、波動の問題なのか。
下水道の老朽化は、宇宙の計画なのか。

違う。

少なくとも、現実の層では違う。

ここで、私は三つの層を分ける必要があると思う。

事実の層。
責任の層。
意味の層。

事故が起きたなら、まず事実の層がある。

何が起きたのか。
どこで起きたのか。
なぜ起きたのか。
どの設備が壊れていたのか。
どの点検が不十分だったのか。
どの救助が可能だったのか。

これは、現実に向き合う層である。

次に、責任の層がある。

誰が管理していたのか。
制度に不備はなかったのか。
予算は足りていたのか。
再発防止のために何を変えるべきか。
同じ危険にさらされている人をどう守るのか。

これは、社会が引き受けるべき層である。

そして最後に、意味の層がある。

残された人が、その出来事をどう抱えるのか。
本人が、もし生き延びたなら、その経験をどう語るのか。
遺族が、長い時間をかけて、そこにどんな意味を置くのか。
社会が、その出来事を忘れず、何を学びとして受け取るのか。

これは、祈りや物語の層である。

この三つは、混ぜてはいけない。

意味の層を、事実の層に持ち込んではいけない。
責任の層を、魂の物語で消してはいけない。

「魂が選んだ」という言葉は、もし使うなら、意味の層にだけ置かれるべきである。しかも、それを使う権利は、原則として本人にある。少なくとも、その苦しみに直接関わる人にある。

外側にいる第三者が、事実も責任も見ないまま、

「魂が選んだ」

と言ってはいけない。

それは、苦しむ人を救う言葉ではなく、苦しむ人を黙らせる言葉になる。

私は、スピリチュアルが本来持っている力を、そこまで嫌ってはいない。

人間は、意味なしには生きにくい。
世界は不条理である。
努力は報われるとは限らない。
善人が苦しみ、悪人が笑うこともある。
何かがうまくいったと思った瞬間、それが次の失敗の種だったりする。

それでも、人は死ぬまでは生きる。

だから、人は祈る。
物語を持つ。
意味を置く。
見えないものに手を伸ばす。

その営みを、私は否定しない。

しかし、他人の苦しみを前にしたときに必要なのは、まず祈りではなく、現実を見ることではないか。

苦しんでいる人がいるなら、支援がいる。
事故が起きたなら、原因究明がいる。
制度に穴があるなら、制度改善がいる。
インフラが老朽化しているなら、維持管理がいる。
貧困があるなら、住居、教育、仕事、福祉がいる。
病気があるなら、医療とケアがいる。

その上で、なお残る苦しみを、人はどう抱えるのか。
そこで初めて、意味の物語が必要になる。

順番を間違えてはいけない。

スピリチュアルは、現実を見た後に残る痛みを抱えるためには使える。
しかし、現実を見る前に、現実を消すために使ってはいけない。

「魂が選んだ」は、自分の痛みに対してなら、祈りかもしれない。
しかし、他人の痛みに対してなら、暴力になりうる。

この線引きは、何度でも確認したい。

私は、人生に意味を見出したいという人間の望みを否定しない。
しかし、他人の人生を、勝手に意味づける権利は誰にもない。

「あなたの苦しみは、あなたの魂が選んだ」
そう言う前に、問うべきことがある。

何が起きたのか。
誰が苦しんでいるのか。
何が足りなかったのか。
どうすれば防げたのか。
今、何を支えるべきなのか。

その問いを通らないスピリチュアルは、優しそうに見えて、現実から逃げている。

そして、現実から逃げる言葉は、ときに現実で苦しむ人をさらに傷つける。

だから私は、「魂が選んだ」という言葉を、簡単には使いたくない。

使うなら、自分にだけ。
しかも、断定ではなく、祈りとして。
他人には、まず手を差し伸べる。
社会には、まず責任を問う。
制度には、まず改善を求める。

宇宙の意味は分からない。

だからこそ、私たちは、分かる範囲の責任から逃げてはいけない。

分からないものに祈ることと、分かっている課題に手をつけること。
この二つを混ぜずに、両方持つこと。

そこにしか、スピリチュアルを人間の味方として残す道はないのだと思う。

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