宮崎旅行中、ホテルのベッドの上で、私はなぜか「りくりゅう」について延々と調べていた。昼間はレンタカーで神社へ行ったり、海へ行ったり、地元のスーパーで味噌やらニンニクやらを買ったりしている。夜になれば普通は、風呂に入って、買ってきたものでも眺めながら、「今日は疲れたねえ」と言って寝ればいい。
ところが私はベッドに転がりながらスマホを握り、「三浦璃来 木原龍一 距離感」とか、「りくりゅう ご想像にお任せします」とか、「木原運送 いつから」とか検索している。何をしているんだ、私は。しかも一度検索を始めると、過去のインタビューが出てきて、そのコメント欄が気になって、今度は婚約前の掲示板まで遡り始める。宮崎まで来て、私はフィギュアスケート選手の数年前の人間関係を発掘している。中年の夏休みとして、もう少し他にやることがある気もする笑
発端は、りくりゅうこと三浦璃来さんと木原龍一さんの婚約だった。これは、別に何も難しいニュースではない。長年ペアを組んできた二人が婚約した。金メダリストでもある。「おめでとうございます」でいい。私も婚約そのものについては、普通におめでたいと思った。だから最初、婚約発表のあとにSNSで揉めているのを見たときには、何がそんなに揉めるのだろうと思った。
ところが読んでいくと、少し話が違う。批判している人の中には「結婚するなんて許せない」と言っているわけではない人が結構いる。むしろ「婚約はおめでとう」と言ったうえで、「でも、これまで人前で見せていた距離感は苦手だった」と言っている。 ハグ。頭をポンポンする。じゃれ合う。相手が持っている食べ物をそのまま食べる。表彰台でいわゆる「木原運送」をする。
もちろん、その一つ一つなら何とでも説明できる。フィギュアのペアだから。海外生活が長いから。命を預け合う競技だから。仲がいいから。本人たちに恋愛的な意図はなかったのかもしれない。そして何より、ものすごい競技実績がある。だから多くの人は、それを「尊い」「仲良し」「信頼関係」として見ていた。
でも一方で、婚約するより前から「演技中はいいけれど、演技を離れた場面での距離感はちょっと苦手」「一般人がバス停でハグしたり頭ポンポンしたりしていたら、勘弁してくれと思う」という人もいた。ここが、私には妙に面白かった。 婚約したから急に嫌いになった人だけではない。婚約する前から「これ、公共の場でやる距離感なのかな」と思っていた人がいた。しかも当時それを言うと、「フィギュアを恋愛として見る方がおかしい」「下世話」「嫉妬」みたいに言われることがあったらしい。
そして実際に婚約した。そのあと三浦さんが、世間があまり驚いていないことに驚いた、という趣旨の発言をした。それを見て「いや、みんな気づいていたんじゃないの?」と思った人が出てくる。むしろ、気づいていたけれど、本人たちが公表していないのだから勝手に決めつけないようにしていた人もいたのではないか。そう考えると、妙に話が複雑になってくる。
たぶん今回の騒動は、正論と非常識の戦いではなく、正論と正論がぶつかったから面白かったのだと思う。 一つは「人の婚約や結婚は祝うものだ」という正論。これは強い。私もそう思う。もう一つは「恋人同士でも、人前では過度なスキンシップを少し控えるものだ」という正論。これも、日本ではかなり普通に存在する感覚だと思う。
駅のホームで、隣のカップルがずっと抱き合っていても、別に犯罪ではない。注意もしない。でも「うわあ、ずっとやってるなあ」と思う人はいる。そこでわざわざ「あなたたち、公共の場ですよ!」と説教する人も少ない。見る側にも「多少なら黙って流す」という規範があるからだ。だから普段は、する側が少し控える。見る側も多少は我慢する。そのあたりで均衡している。
りくりゅうの場合は、そこにさらに様々な要素が乗る。金メダル。世界トップクラスの実績。長年一緒に困難を乗り越えてきた物語。ペア競技。海外生活。愛されるキャラクター。その辺の駅前のカップルなら「勘弁してくれ」と思う動作でも、「りくりゅうだから」となる。それ自体は別に不思議ではない。人間なんて、誰がやるかによって同じ行為の見え方が変わる。
ただ、そこに違意感を持つ人もいる。「それはそれ、これはこれじゃない?」と。婚約は祝う。競技実績もすごい。でも公共の場での一部の振る舞いは、私は好きではない。別に両立する。なのに、この立場を説明しようとすると、突然ものすごく面倒くさいことになる。
ここで、今回いちばん興味を持ったことがある。「おめでとう派」と「一部の振る舞いには違和感がある派」では、発言するために必要な労力が全然違うのだ。
たとえば前者なら「普通におめでとうでよくない?」で終わる。これだけでいい。ものすごく軽い。スマホで十数文字打てばいい。「普通におめでとうでよくない?」と投稿して終わり。周りも「ほんとそれ」「普通に祝えばいいのに」「なんで人の幸せを祝えないんだろう」と続く。 まるで顔パスである。入口で係員に「あ、おめでとう側ですね。どうぞどうぞ」と言われて、そのまま中へ入れる。身分証もいらない。荷物検査もない。何を考えている人なのかも聞かれない。「私はこういう倫理観に基づいて婚姻という制度を肯定しており……」などと説明する必要もない。
「普通に」の一言が全部やってくれる。「普通におめでとう」と言った瞬間、「私は常識があります。他人の幸せを喜べます。嫉妬深くありません。社会性があります。人として成熟しています」という大量の証明書が、なぜか自動的についてくる。便利すぎる。
それに対して「婚約はおめでとうだと思うけれど、過去のスキンシップには少し違和感があった」と書こうとすると、途端に入国審査が始まる。 まず「私はアンチではありません」と言わなければならない。次に「競技者としては尊敬しています」と言う。さらに「婚約自体には何も反対していません」も必要になる。「年齢差を問題にしているわけでもありません」も付けた方がいい。「恋愛するなと言っているわけでもありません」も書く。「交際を公表する義務があったと言っているわけでもありません」も必要だ。さらに危険なので「本人たちの内心を決めつける意図もありません」も付ける。「フィギュアという競技の特殊性も理解しています」も入れる。「海外ではスキンシップが多い文化があることも承知しています」も書いた方が安全。「ただ、それらを踏まえても、私は競技外の公共の場での一部の振る舞いについては……」
ここまで来て、ようやく本題に入れる。長い。ものすごく長い。何か意見を一つ言いたいだけなのに、その前に税関でスーツケースを全部開けさせられているような気分になる。
「これは何ですか?」 「婚約への反対ではありません」 「こちらは?」 「嫉妬でもありません」 「この瓶は?」 「恋愛そのものへの嫌悪ではありません」 「この包みは?」 「金メダルを軽視しているわけでもありません」 「こちらの粉末は?」 「フィギュアのペア文化を否定しているわけでもありません」
全部机の上に並べて、ようやく「では入ってよろしい」となるかと思ったら、最後に「でも、わざわざそんなことを書くってことは、やっぱり嫉妬なんじゃないですか?」と言われる。なんじゃそりゃ笑
正論側は顔パスなのに、異論側だけ所持品検査を受ける。しかも検査に全部合格しても、入国を拒否されることがある。これ、相当なコスト差だと思う。 だから多くの人は、途中で「もういいや」となるのではないか。頭の中では「私は結婚を祝っている。でもあの距離感はちょっと苦手だった」と思っていても、それをSNSに書くために、600文字の但し書き+誤解防止の予防線+「アンチではない」という自己紹介+想定反論への回答まで書くくらいなら、黙ってスマホを閉じる。
正論側は十五文字。異論側は小論文。これでは表面上の人数に差が出るのも当然ではないか、と私は思った。
しかも、正論側にはもう一つ強い武器がある。論理ではなく「普通」という言葉だ。「普通に祝うでしょ」「普通そんなこと気にしない」「普通、人の幸せを喜ぶよね」。 この「普通」は便利である。なぜそうなのか説明しなくていい。「普通だから」。これで説明終了。そして反対すると「ではあなたは普通ではないのですね」という場所へ自動的に移される。これは強い。論証というより、座席指定に近い。「こちらが普通席です」と先に札を置いてしまう。反対意見を言った瞬間、相手は「変な人席」に座らされる。
これを書きながら、前に「生理的に嫌」という言葉について延々考えたことを思い出した。あのときも似たようなことを考えていた。 誰かが「私はあの人、生理的に嫌なんだよね」と言う。理由はまだない。でも「分かるー」と周囲が言う。そのあとになって「なんで嫌なんだろうね?」と理由を探し始める。順番が逆なのだ。普通は、こういう行動をした。こういう問題がある。だから嫌い。となりそうなものだが、まず「生理的に嫌!」と殴る。そのあとで「ところで、なんで嫌なんだろう?」と理由を募集する。
でも、その人が正論側にいる場合には、それで成立してしまう。「なんとなく嫌」でも許される。周囲が理由の不足を補ってくれる。空気が論証をしてくれる。 ところが、社会的に祝福されている対象に向かって「私はあのスキンシップ、生理的に苦手」と言うと、今度は「その“生理”の中身を説明してください」となる。「嫉妬では?」「恋愛経験がないのでは?」「幸せじゃないのでは?」「何か過去にトラウマでも?」と、ものすごい勢いで、こちらの内面の開示まで要求される。なぜ同じ「生理的に嫌」なのに、片方は理由不要で、片方は心理検査まで受けなければならないのだろう。たぶん、「生理的」という言葉の問題ではない。その嫌悪が、その場の正統な方向を向いているかどうかなのだと思う。
同性愛についても、昔似たことがあった。「同性愛って、生物学的におかしいでしょう」という言葉。これも、今考えると面白い。「生物学的に」と付いているので、何となく科学的な話に聞こえる。 しかし、何をもって生物学的異常とするのか。自然界に同性行動が存在したらどうなるのか。生殖に直接結びつかない性行動を全部「異常」とするのか。仮に生物学上珍しいとして、そこからなぜ社会的に否定してよいという規範が出てくるのか。本当は山ほど論点がある。
でも当時、「異性愛が普通であり、同性愛はそこから外れている」という空気が十分強ければ、「生物学的におかしいじゃん」で済む。こちらが頑張って「いや、生物学的には……」と反論して、仮にそこを崩したとしても、「でも子ども産めないじゃん」に移る。そこを崩すと「少子化なのに」になる。「それなら子どもを持たない異性愛者も同じでは?」と言うと「子どもの教育に影響が」に移る。そこを説明すると「でも私は生理的に無理」に移る。
こちらは毎回、新しい問いに答えなければならない。相手は結論を一ミリも動かさず、根拠だけ交換できる。これは疲れる。ものすごく疲れる。 一つ論破して終わるならまだいい。でも「あ、この理由では守れないのか。じゃあ次」と次々出されたら、反論する側だけが延々走らされる。相手はスタート地点から動いていない。なのに、こちらだけ何キロも走っている。そのうち「もういいや」となる。しかも、そうやって黙ると「やっぱり反論できないんだ」となる。なかなかよくできた仕組みである。
今回のりくりゅうでも、少し似たものを感じた。 批判者が「婚約には反対していません。問題にしているのは公共の場での振る舞いです」と言う。すると「フィギュアはペア競技なんだから」と言われる。「競技中ではなく競技外の話です」と答える。すると「海外生活が長いから」となる。「文化差があることは分かるけれど、日本のテレビ番組などの話をしています」と答える。すると「命を預け合う信頼関係だから」となる。「その信頼関係自体は否定していません」と言う。すると「金メダル取ってるんだからいいじゃん」となる。 そして最後には「そんなことをいちいち気にするあなたがおかしい」になる。あれ? いつの間に私の人格の話になったのだろう。元々は「この振る舞いは公共空間でどの程度許容されるか」という話だったはずなのに。
そして婚約から数日後。今度はニュース記事まで「なぜ過去の“尊いスキンシップ”が“公然イチャイチャ”に見えるのか」という話をし始めた。 精神科医が出てきて、婚約という新しい情報によって過去の記憶が再構成されること。「恋人ではないのに深く信頼し合う男女」という希少性がなくなったこと。日本では人前のスキンシップを好ましく思わない人も多いこと。そんな説明をしている。数日前まで「そんなことを気にするのは嫉妬」くらいで片付けられていた感覚が、いつの間にか専門家が説明する対象になっている。それはそれで妙な感じがする。
ただ、その記事のタイトルには「素直に祝福できない人も……」と書いてある。 ここでも「あれ?」と思う。祝福できないとは限らない。婚約は祝う。でも一部の振る舞いは苦手。それだけかもしれない。なのに、留保を一つ付けた瞬間「素直に祝福できない人」になる。「素直に」という言葉も、「普通に」と同じくらい面白い。素直な人はこちら。何か言う人は、ひねくれている側。言葉一つで立ち位置まで決まってしまう。
ここまで考えたところで、ホテルのベッドの上でスマホを見ている自分に戻る。隣には旅行用の荷物。昼間買ったものが入った袋。外は宮崎。せっかく遠くまで来ている。 私はなぜ「普通」という日本語の社会的機能みたいなことを考えているのだろう。しかも結構楽しい。最初は「りくりゅうってなんでこんなに揉めてるんだろう」くらいだった。そのうち「婚約を祝うことと、公共の振る舞いを評価することは別では?」になり、そこから「なんで片方は『普通に』だけで済むんだ?」になり、気がつけば、同性愛、生理的嫌悪、多数派、空気、論証、反証可能性。そんなところまで来てしまった。旅行中に掘る穴としては、ずいぶん深い。
明日はまたレンタカーを運転しなければならない。そろそろ寝た方がいい。でもあと一個だけ「りくりゅう 婚約前 距離感」で検索してから寝ようかな。たぶん、こうやって寝るのが遅くなるのである笑

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