「別表」は受け取りません

1.「また、このパターンか」

髙橋塁さんが、自分はゲイであり、セクシュアルマイノリティの一人だと公表した。このニュースを知ったとき、私の中には「また、このパターンか」という気持ちと、「誰だろう?」という気持ちが同居していた。

「また」というのは、スポーツ選手や有名人のカミングアウトが、もう結構陳腐化してきているからだ。一昔前なら「え、イアン・ソープが公表?」と驚くこともあったけれど、だんだん「そういう人もいるし」という感覚になってきた。「誰だろう?」のほうは、やっぱり野次馬根性というか、ゴシップというか、そういう興味から入った。

そんな入り口から本人の文章を読んで、そのあとヤフーニュースのコメントを100件ほど一つずつ眺めていたら、ずっと前から自分の中にあった違和感が、ようやく言葉になった。

私は昔から、「男性のパートナーがいます」とは普通に言えるのに、「私は同性愛者です」とは、どうにも言いたくなかった。別に隠しているわけではない。大学でも職場でも、男性のパートナーがいることは話してきたし、聞かれれば答えるし、必要なら説明もする。それなのに、自分を「同性愛者」と分類することにだけは妙な抵抗がずっとあって、なんでなんだろうと思っていた。


2.「同性愛者」には巨大な別表がついてくる

今回コメントを読んでいて、その理由がやっと分かった。「同性愛者」というラベルには、いつも巨大な別表が同封されてくるからだ。契約書や約款の最後に、細かい字でびっしり並んでいるあの一覧のようなもので、こっちは読んだ覚えもないのに、なぜか同意したことにされている。そこには、たとえばこんなことが書いてある。

特別、少数派、異質、普通ではない、正常の反対、珍しい、理解が必要、受容が必要、認められる対象、寛容の対象、偏見の対象、配慮が必要、迷惑になり得る、問題になり得る、悪いことではない、本人の自由、プライベートなこと、性的なこと、性癖、BL、勇気が必要、覚悟が必要、苦悩を伴う、自己受容が必要、支えが必要、自分らしく生きる必要がある、強く生きる必要がある、応援される対象、社会に理解してもらう必要がある。まだまだ続く。

髙橋さんへのコメントには、「誰にも迷惑をかけるものではないし」「なんの問題もないです」「差別することでもない」「自分らしく生きて」「応援しています」といった言葉がずらっと並んでいた。多くは善意なのだと思う。それでも、どこか引っかかる。

コメントの宛先は髙橋さんでも、「ゲイ」に向けて書かれた言葉は、同じ分類に入っている私のところにも届く。それで読んでいると、こっちは迷惑の話も、問題の話も、悪いことの話もしていないのに、と思ってしまう。ゲイだと分かった瞬間に「大丈夫ですよ」と判定されなければならないのは、どうしてなんだろう。

「誰にも迷惑をかけていないからいい」と言われると、そもそもなんで私の属性が迷惑かどうかの審査にかけられてるの、と思う。「差別することでもない」と言われたら、差別するかしないかを決める席に、あなたはいつから座っていたんだろう、とも思う。肯定的な言葉であっても、その中にはときどき、認める側と認められる側という上下関係が忍び込んでいる。


3.飲み込んでいたのは「自分」ではなく、社会との関係だった

髙橋さん自身の文章も、読み返すと興味深かった。彼は冒頭で、幼いころから自分の「ある一面」と向き合うことを恐れ、悩み、自分自身を否定していたと書き、そのあとで、その一面がゲイであることだと明かしている。読んでいて、まだ少し「途中」なのかな、と思った。すっかり消化して血肉になったことを昔話として振り返っている文章というより、飲み込んだものが喉や食道を通っていく感触が、まだ残っている文章に見えた。

以前、こんなたとえを考えたことがある。固くて大きくて、まずい肉の塊を、必死に噛んでようやく飲み込む。しばらくは喉を通っていく感じがあるし、食道を降りていく感じもあるし、胃の中にも重く残る。でもそのうち胃酸で溶けて、腸で消化されて吸収され、やがて血肉になってしまえば、どの細胞があの肉だったかなんて、もう分からない。

最初は、髙橋さんが飲み込もうとしているのは「ゲイである自分」なのだと思っていた。でも、たぶん違う。彼が飲み込んできたのは、ゲイであることそのものより、自分と社会との関係のほうなんじゃないか。実際、彼が自分を認められたきっかけとして挙げているのは弟の藍さんと話したことで、感謝を向けている相手も、家族、チームメイト、チームスタッフ、関係者、ファンと、みんな人との関係だ。

家族はどう見るだろう、弟との関係は変わるだろうか、チームメイトやスタッフ、ファン、世間はどうだろう。ゲイだと公にした自分が、これまでの人間関係の中にそのままいられるのかを、一つずつ確かめながら飲み込んできたのではないかと思う。

そう考えると、彼が書いた「自分自身を受け入れられずに悩んでいる方」という言い方にも、少し引っかかる。悩んでいる人の多くは、自分を受け入れられないわけではないのかもしれない。自分のことはとっくに好きで、ただ、親に言ったら関係が変わるんじゃないか、職場で知られたら扱いが変わるんじゃないか、友達が離れていくんじゃないか、と社会との関係を心配しているだけなのかもしれない。だとしたら、その人に必要なのは自分を受け入れる勇気ではなく、周りの側が変わることだろう。

念のために書いておくと、髙橋さんが書いた恐れや悩みは、彼が自分の言葉で差し出した彼自身の中身で、別表とは違う。それが別表になるのは、「ゲイとはそういうものだ」という説明書きになって、ほかの誰かのところへ勝手に届けられるときだ。


4.私の肉は、いつの間にか消化されていた

自分のことを思い返すと、私があのまずい肉を噛んでいたのは、18歳の高校3年までだったと思う。地元の進学校で、同級生の男子に惹かれたりしながら、具体的なアクションは何も起こせずに、もんもんとしていた。それが東京の大学に進学して上京したとたん、当時流行っていたメンズネットジャパンや、マッチングアプリの先駆けのような仕組みをガラケーで駆使して、男性と出会うようになった。常に誰かと付き合っては別れ、別れては付き合い、みたいな状態だった。

東京に出て、実際に男性と出会い、好きになり、好かれ、付き合って、別れて、また付き合った。その繰り返しの中で、「この自分のままで人と関係を作れる」ということを、頭ではなく現実で覚えていったのだと思う。

18歳から先は出会いも多く、別表に書いてあるような苦しい状況は、ほとんどなかった。それは、私が人に恵まれていたからだと思う。「ゲイである自分を受け入れよう」と努力していたというより、普通に恋愛が成立して、普通に人間関係が続いて、人生がそのまま進んでいった。そのうち肉はいつのまにか消化されていて、どの細胞があの肉だったのかも、もう分からなくなった。

髙橋さんの場合は、私のころとは時代が違う。今のほうが話しやすいし、公表しやすいところもあるだろう。特に若い世代の意識は、変わるのが早い。それでも、「同性愛」には昔ながらの重たい別表がまだくっついているし、彼は有名人で、弟の藍さんもまた有名人だ。肉の大きさも、飲み込む場所も、私とはまるで違う。葛藤も不安も悩みも、大きかったと思う。

別表に「勇気が必要」と書き出しておいて何だけれど、今回、思い切ってインスタに投げたことは、素直に勇気があるなと感じた。ただ、その勇気が要ったのは、ゲイだからというより、重たい別表と、有名人という立場のせいだと思う。


5.「同性愛者」という言葉は、何を分類しているのか

もう一つ、今回あらためて変だなと思ったのが、「同性愛」という言葉そのものだ。人類愛なら人類への愛、郷土愛なら郷土への愛だけれど、同性愛は同性全体を愛することではない。私は男性の99%以上について、好きでも嫌いでもない。知らない人は、ただの知らない人だ。

「同性愛」という字面を素朴に読むと、AさんとBさんの間に生じた愛について、二人の性が同じだ、と言っているようにも見える。実際に起きていることは、誰かが誰かを好きになる、という具体的な関係だ。

ところが、実際に使われている「同性愛者」という言葉は、二人のあいだに現在どんな関係があるかだけを指しているわけではない。恋人がいなくても、一度も交際経験がなくても、現在誰も好きではなくても、「同性愛者」という分類は成立する。

つまり、いつの間にか二人のあいだの話ではなく、一人の人間の内部にある、長期的で恒久的な属性のように扱われている。

「者」がつくと、話が変わる。

夫婦愛者や親子愛者とは誰も言わないのに、同性愛者という言葉は当たり前に使われていて、AとBのあいだにある関係についての話だったはずのものが、いつのまにかAという人間そのものの分類になっている。例の別表がくっついてくるのも、この人間の分類のほうだ。

今回少し調べてみて、日本語で「同性愛」が人間を分類する言葉として広がっていったかなり早い時期から、性科学や「変態性欲」といった病理化の文脈が強く結びついていたことも知った。1913年にはクラフト=エビングの著作が『変態性慾心理』という題で日本語訳され、その後の性科学の広がりの中で、「同性愛」という言葉も人間の性を分類する語として定着していったらしい。

つまり、「同性愛」という言葉には、生まれた瞬間から別表が完成していた、とまで言うのは正確ではないにしても、少なくとも近代日本でこの言葉が人間を分類する語として育っていくかなり早い段階から、「変態」「病理」「正常/異常」といった重たい意味づけがまとわりついていた。

それを知ったとき、「同性愛」という字を読んだり耳にしたりするたびに私が感じてきた、気持ちの悪さや居心地の悪さ、背徳感、生理的な嫌悪感の一部が、妙に腑に落ちた。

だから私には、「私は同性愛者です」より「男性のパートナーがいます」のほうが、ずっと自然に感じられるのだと思う。こっちは、私の生活の中にある具体的な事実だからだ。異性愛の人だって、ふだん「私は異性愛者です」と思いながら暮らしてはいないだろう。妻がいる、夫がいる、彼女がいる、子どもがいる、と思っているだけだ。だったら私も、「パートナーがいる。で、その人は男性です」で十分だ。


6.「ご報告」が「告白」に変わるとき

ここまで考えると、コメント欄にあった「なんでゲイだと公表する必要があるの?」という声にも、ちょっと違う角度から頷けるところが出てきた。たしかに、異性愛の人がいきなり「私は異性愛者です」と宣言したら、周りは「……どうしたの?」となるだろう。

ただ、異性愛の人たちは、「妻です」「彼氏です」「結婚しました」と、自分の人間関係のことなら日常的に大量に公表している。それを性的指向の告白と呼ぶ人はいない。結婚式に呼ばれて「夜の生活を想像してしまうので公表しないでください」と言う人はいないし、「人妻もののAVを想像するので仕事の邪魔になります」と言う人もいない。なのに相手が同性になると、同じ話がなぜか急に、性癖だの、性的な話だの、BLだの、性対象だのに変換される。これはパートナーのことを話した人の問題ではなく、聞いた側の頭の中で起きている変換だ。

そういえば、ヤフーニュースの見出しは「告白」になっていた。本人の投稿のタイトルは「ご報告」なのに。

本人は、報告した。

社会は、それを告白として受け取った。

報告なら、生活上の情報を知らせることだ。告白になると、隠していた重大な秘密を打ち明ける話になる。

たった二文字の違いだけれど、これもたぶん、同じ変換なんだろう。

考えてみれば、異性愛の選手が性的指向を報告することはない。恋人や結婚の話をすれば、それで済むからだ。同性の場合はその普通の話し方をすると変換された反応が返ってくるから、先に一度、自分の言葉ではっきり伝えておく必要が出てくる。

「なんでわざわざ公表するの?」の答えは、わざわざ公表しないと済まないようにできているから、なんじゃないか。

最初に「また、このパターンか」と思ったけれど、そのパターンを繰り返させているのも、たぶんこの仕組みのほうだろう。


7.宛名は私でも、中身は社会が勝手に詰めたもの

いろいろ考えて、最後に自分の中でいちばんしっくりきたのは、こんな言葉だった。

宛名は私でも、中身は社会が勝手に詰めたものでしょ。受取拒否します。

「ゲイ」という分類を使いたい人は使えばいいし、その人が、私のことをそこに入れたいという気持ちを否定したいわけではない。髙橋さんのように自分から名乗ることが、まだ誰にも言えずにいる誰かに届くことだってあるだろう。彼が最後に「少しでも何かのきっかけになれば」と書いていたのは、きっとそういうことだ。

ただ、私がその「ゲイという分類」の中に入れられたからといって、「だからあなたは苦悩している」「だから理解される側だ」「だから勇気が必要だ」「だから応援してあげる」「だから社会に認めてもらわなければならない」「だから性的に特殊な人だ」という別表まで、私自身の説明書として受け取るつもりはない。それは私の中身ではない。

その別表がどこから出てきたのか、一度考えてみたらいい。少なくとも私からではない。もしかすると、それを書いた人自身の内面から出てきたものなんじゃないか。知らんけど。

私宛に送ってくるのは自由だ。でも、私は受け取らない。

男性のパートナーがいる。私にとっては、まずそれだけのことである。

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