ゼロを目指すと、人生にアプリが要る――『DIE WITH ZERO』という不思議な本

『DIE WITH ZERO』は、不思議な本だと思う。

この本の主張を、ごく緩やかな方向性として受け取るなら、

老後に備えることばかり考えて、今しかできないことを逃さないようにしよう。
お金は死後へ持っていけないのだから、ときには現在の幸福にも使おう。

という話になる。

これはそのとおりだと思う。

将来への備えを優先しすぎることで、親が元気なうちに一緒に旅行できなかったり、身体が動くうちにしたかったことを逃したり、働きすぎて健康を損ねたりすることはある。

貯蓄にも、過剰になれば機会費用がある。
いわば「備えすぎリスク」である。

けれど、これは別に『DIE WITH ZERO』が発見した新しい思想ではない。

「孝行のしたい時分に親はなし」
「明日ありと思う心の仇桜」
「鉄は熱いうちに打て」
「明日の百より今日の五十」
「宵越しの銭は持たない」
「カルペ・ディエム」
「メメント・モリ」

古今東西、人間は昔から、

時間は戻らない。
好機には期限がある。
財産はあの世へ持っていけない。

と知っていた。

「備えすぎず、今を大切にしよう」という程度なら、かなり言い古された人生訓なのである。

ゼロは比喩なのか、目標なのか

ところが『DIE WITH ZERO』は、単に「今を大切にしよう」とは言わない。

死ぬときには、財産をゼロにしよう。

と言う。

ここで、話が急に難しくなる。

「ゼロ」が比喩なら、文字どおりゼロ円にする必要はない。

必要以上に残すことばかり考えず、今しかできない大切なことにも使おう。

という方向を示す、強いキャッチコピーにすぎない。

しかし、ゼロ円そのものに意味がないのなら、別に死亡時の残高が五百万円でも一千万円でもよいはずである。

大切な人と十分に過ごし、したいこともして、穏やかに生きた人が、たまたま一千万円を残して亡くなったとしても、それを人生の失敗とは呼べない。

反対に、「本当にゼロを目指すべきだ」と受け取るなら、人生はとても面倒な計算問題になる。

何歳まで生きるのか。
何歳まで健康でいられるのか。
医療や介護にいくら必要になるのか。
年金はいくら受け取れるのか。
資産は何%で運用できるのか。
何歳から労働時間を減らすのか。
何歳で、どの経験に、いくら使うのか。

寿命も、病気も、物価も、相場も分からない。

早く亡くなればお金が残る。
長生きすれば足りなくなる。

死ぬ瞬間に残高をぴったりゼロへ合わせることは、株価の最高値で全株を売り抜けるようなもので、結果として偶然できることはあっても、計画によって正確に実現できるものではない。

それでも真剣にゼロを目指すなら、アプリが必要になる。

「今年の花見は中止してください」

たとえば、人生最適化アプリに、年齢、資産、健康状態、想定寿命を入力する。

すると、こんな通知が来るかもしれない。

平均余命から計算すると、桜を見られる回数は、あと32.6回です。
今年の花見へ使うべき適正予算は4万8,000円です。
思い出の配当を最大化するため、今後の訪問頻度を次のように配分してください。

さらに、効用の低減まで計算すれば、

過去五年間に四回の花見を実施しています。
桜に対する新奇性が低下しているため、今年の花見は中止してください。
代わりにNintendo Switchと『スーパーマリオ』を購入することで、生涯効用が最大化されます。

と勧めてくるかもしれない。

しかし、人は毎年、同じ桜を同じように見ているわけではない。

子どもの頃、祖父母や両親と見た桜。
大学時代、友人たちと飲みすぎた花見。
初めてのデートで、相手のことばかり気になって花を覚えていない桜。
社会人になり、職場の付き合いに疲れながら見た桜。

目の前の桜には、過去の桜が重なっている。

同時に、

来年も見られるだろうか。
そのとき、隣には誰がいるだろうか。
あと何回、この桜を見るのだろう。
私がいなくなったあとも、桜は咲くのだろうな。

と、未来にも思いを向けている。

花見一回の効用を、価格や新奇性だけでは計算できない。

だから、

あと何回、桜を見られるかな。
今年の桜も、きれいだね。

それだけで、人生哲学としては十分なのかもしれない。

一瞬だけ未来に目を向け、ふっと現在のかけがえのなさを思い出す。

そのあと何をするかは、それぞれが決めればよい。

貯蓄強迫から、思い出強迫へ

『DIE WITH ZERO』を真面目に受け取った人は、かえって疲れてしまうのではないかと思う。

もともとは、

一円でも多く残さなければ不安だ。

と思っていた。

ところが本を読んだあとには、

一円でも残したら、人生を無駄にしたことになるのではないか。

と心配し始める。

貯蓄額を監視していた人が、今度は「人生消化率」を監視する。

この旅行は、十分な思い出を生んだだろうか。
もっと若いうちに行くべきだったのではないか。
今年の経験予算を使い切れていない。
このままでは、死ぬときにお金が余ってしまう。

それは、貯蓄への執着から自由になったのではない。

執着の対象が、

残高の最大化

から、

お金を思い出へ変換する効率の最大化

へ移っただけである。

祖母は、ソファーが一ミリでも摩耗することを恐れた。
ビルは、お金から得られたはずの思い出を一ミリでも取りこぼすことを恐れた。

祖母はソファーをビニールで包んだ。
ビルは人生を支出曲線で包んだ。

方向は正反対でも、どちらも「価値を少しも損なわずに回収したい」という点では、案外よく似ている。

軽く読めば陳腐。真面目に読めば重すぎる

結局、『DIE WITH ZERO』は、二通りにしか読めないように思う。

方向性として軽く読むなら、

大切なことを、理由もなく先延ばしにしすぎないようにしよう。

という、昔からある人生訓である。

真剣にゼロ円を目指すなら、

余命、資産、健康、年金、運用利回り、医療費、経験の適齢期を計算し続ける。

という、極端に難しく窮屈な人生管理になる。

つまり、

軽く受け取るには新しくない。
真面目に受け取るには重すぎる。

そんな不思議な本なのだと思う。

「備えすぎにもリスクがある」という言葉は、人の心を少し緩める。

けれど、

死ぬときには絶対にゼロにしなければ損だ。

と言われた瞬間、それは別の方向から人生を締めつけ始める。

人生には、使えなかったお金も、行けなかった旅行も、見られなかった桜も残る。

たぶん、少しくらい余ってもよい。

すべてを経験へ変換できなくてもよい。
人生を完全に使い切れなくてもよい。

今年の桜を見て、

きれいだね。

と思えたなら、その日はもう、十分に生きている。

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