戸塚宏氏の動画が、どうにも苦手だ。
話の内容に賛成できないから、というだけではない。
相手を見下すような口調。質問をしているようで、相手が自分の用意した答えを言うまで許さない感じ。こちらが問いの意味を確認しようとすると、「逃げるな」「まず答えろ」と押し返してくる感じ。
会話をしているようで、会話ではない。
戸塚氏の中には、すでに正解がある。
相手は、その正解を理解できる人間か、まだ理解できない未熟な人間か。そのどちらかに振り分けられるだけなのではないか。
そんな印象を受けた。
ある動画で、戸塚氏は出演者に、こう尋ねていた。
「人間の命は地球より重い。信じる?」
そもそも、この問いがよく分からない。
「地球より重い」は、物理的な重量の話ではないだろう。
白髪三千丈と同じような、命の価値を最大限に強調する比喩である。
文字どおり受け取るなら、地球には、その一人を含む全人類、全生命、生態系、そして生命を支える物理的基盤まで含まれている。
一人の命が、それらすべてを含む地球より重いというのは、論理的には妙な話だ。
だから本来なら、
誰の命を、誰の立場から、どのような意味で「重い」と言っているのですか。
と聞き返さなければならない。
ところが戸塚氏は、その曖昧さを整理することを許さない。
相手に「命は重い」と言わせたあと、山手線の人身事故を例に出し、乗客は誰も泣かず、電車が遅れたことに腹を立てているではないか、と迫る。
しかし、人の心はそんなに単純ではない。
遅刻しそうで焦る気持ち。
事故に遭った人を気の毒に思う気持ち。
自殺だったのだろうかと想像する気持ち。
事情が分からないので、感情を置く場所がない感じ。
巻き込まれたことへの苛立ち。
それらが、矛盾したまま同時に存在する。
そもそも車内放送だけでは、人が死亡したかどうかも確定していない。一方、自分の乗っている電車が止まり、約束に遅れることは確定している。だから、まず目の前の遅延に反応する人がいても不思議ではない。
そして、近しい人が亡くなったときでさえ、人は直後に泣けるとは限らない。
葬儀が終わるまで現実感がなく、その後、一人になったときに初めて涙が止まらなくなることもある。
「泣かなかった」という外形だけから、人間は本心では他人の命をどうでもいいと思っている、と結論づけることはできない。
まして、
山手線の乗客は泣かなかった
だから人命尊重は偽善である
だから教育でも、もっと危険や苦痛を許容すべきだ
と進むなら、論理の橋が何本も抜け落ちている。
戸塚氏の話が分かりにくいのは、難しいことを言っているからではない。
途中に必要な論証を省いたまま、強い口調で向こう岸へ渡ったことにしてしまうからなのだと思う。
戸塚式教育について考えているうちに、そもそも、これを「教育」と呼ぶから話がおかしくなるのではないかと思った。
戸塚氏が主に扱ってきたのは、不登校、非行、家庭内暴力など、家庭や学校だけでは対応が難しくなった青少年である。
それなら戸塚式は、子ども一般を育てる教育論ではなく、強制力を伴う矯正処遇、改善指導、行動介入として評価したほうがよい。
そう考えると、問うべきことは急に具体的になる。
まず、「更生」とは何か。
親に逆らわなくなることなのか。
家庭内暴力が止まることなのか。
学校へ戻ることなのか。
就職することなのか。
数年間、犯罪や暴力を起こさず生活することなのか。
心身の健康を保ち、自分で考えながら社会生活を送れることなのか。
定義がなければ、「更生させた」という言葉には、何でも入ってしまう。
次に、その定義で、全入校者の何割が更生したのか。
成功した人だけではなく、途中で逃げた人、退校した人、元の状態へ戻った人、悪化した人、重傷を負った人、死亡・行方不明となった人まで、すべてを分母に入れなければならない。
そして、一年後、五年後、十年後にどうなっているのか。
戸塚式を受けなかった、同じような問題を抱える人たちと比べて、本当に良好な結果だったのか。
どのような子には効果があり、どのような子には危険なのか。
どの状態になったら訓練を中止するのか。
ここまで出て、ようやく戸塚式は「有効な処遇法か」という議論の俎上に乗る。
ところが、戸塚氏の語りから聞こえてくるのは、具体的な成績表より、
現代人は弱くなった。
人命や安全を重く見すぎている。
苦痛や恐怖が人間を成長させる。
自分は人間の本質を知っている。
という壮大な文明論である。
入校時の状態が、仩に100点満点で5点や10点だったなら、卒業後に30点まで上がっただけでも、十分な成果だと思う。
正社員でなくても、数年間働けるようになった。
家族への暴力が止まった。
学校には戻らなくても、職業訓練へ通えるようになった。
それだけでも胸を張ってよい。
進学塾なら、
「大学に受かった人もいます」
「卒業生は元気に大学へ通っています」
だけでは、実績とは呼ばれない。
受講生全体のうち、何人が受かり、何人が途中で辞め、何人が不合格だったのかが必要になる。
戸塚式についても同じである。
もし本当に多くの人が、5点から30点、10点から40点へ改善したのなら、それは戸塚氏にとって、社会からの批判を跳ね返す最高の材料になる。
それにもかかわらず、成果が具体化されない。
もちろん、数字を出さないから成果が悪い、とまでは断定できない。古い施設なので記録がない、卒業後を追跡できない、個人情報の問題がある、といった事情も考えられる。
しかし、自分の方法が正しく、社会から不当に否定されたと何十年も主張する人が、匿名化した集計や長期追跡を示さないことは、完全に中立な情報でもない。
有利な成績表があるなら、最も必要な場面で出すはずではないか。
戸塚式で、実際に立ち直った人はいると思う。
甘やかされ、生活が乱れ、明確な境界線を示されないまま育った人が、規則正しい生活、運動、共同作業、自然の中での挑戦によって変わることはあり得る。
しかし、その人が改善したとしても、何が効いたのかは分からない。
早寝早起きが効いたのか。
運動が効いたのか。
家庭から一時的に離れたことが効いたのか。
誰かが本気で関わったことが効いたのか。
暴力や恐怖が必要だったのか。
戸塚式という一つの箱に、有効かもしれない要素と、重大な有害性を持つ要素が混ざっている。
成功した人がいることは、その箱の中身をすべて正当化しない。
しかも、人間は一枚岩ではない。
身体能力も、知能も、不安の強さも、感覚の鋭さも、逆境への耐性も違う。
厳しくされることで奮起する人もいる。
理不尽さによって深く傷つく人もいる。
叱責の意味を理解できず、ただ恐怖だけを学ぶ人もいる。
表面的には従順になっても、自分の意思を失っただけの人もいる。
それなのに、戸塚式の理論では、抵抗や苦痛が、
この方法は合っていない
という中止のサインではなく、
本人の弱さが抵抗している
まだ甘えが残っている
だから、さらに厳しくする必要がある
という追加投与の理由に変わり得る。
ここが、最も危険なのだと思う。
成功すれば、教育法の成果。
失敗すれば、本人が弱かった。
逃げれば、甘え。
批判すれば、人間の本質が分かっていない。
死亡事故が起きても、教育法そのものではなく使い方の問題。
この構造では、教育法は何が起きても反証されない。
そして、何を成功と呼ぶか、誰を未熟と呼ぶか、苦痛が必要な範囲か行き過ぎかを、教育者本人がすべて決める。
方法を実施する人と、その方法が成功したかを採点する人が同じなのである。
これは、教育というより、かなり閉じた信仰体系に近い。
戸塚ヨットスクールを宗教団体だと言いたいわけではない。
しかし、創始者が真理を知り、理解できる者と未熟な者を分け、成功は教義の証明、失敗や反発は対象者側の問題として処理される構造は、カルト的な自己封鎖とよく似ている。
「死なせないことだけが教育ではない」と戸塚氏は考えるのかもしれない。
しかし、私には、死なせないことは「教育の最高目標」ではなく、教育が成立するための最低条件に思える。
命あっての物種である。
教育とは、生きている人間が、その後の人生をよりよく生きられるようにするための行為だ。
死んでしまえば、その人についての教育は終わる。
成長も、更生も、自立も、幸福もない。
だから、死亡は教育効果と比較して許容する「マイナス点」ではない。
その人について、教育目的そのものが成立しなくなったということである。
もちろん、子どもに一切の危険や苦痛を経験させないことが正しいとは思わない。
スポーツには疲労がある。
挑戦には失敗がある。
責任を負えば、悔しさや恥ずかしさも経験する。
人間の成長には負荷が必要なのだと思う。
しかし、負荷と苦痛の最大化は同じではない。
挑戦できる環境と、逃げられない支配環境も同じではない。
現実の課題を乗り越えることと、指導者に服従することも同じではない。
戸塚式教育とは何だったのか。
それは、ヨットという自然の中で人を鍛える教育だった、とだけ言うには、あまりにも多くのものが混ざっている。
個人的な成功体験を、人間一般の法則へ拡張した思想。
苦痛に耐えられる人を成功例として残す選別装置。
抵抗する人を未熟者として処理する反証不能な理論。
成功と失敗の判定権を、教育者が独占する仕組み。
そして、重大な結果が起きても、自らの方法を疑う代わりに、
社会が命や安全を重視しすぎている
と、社会の側を間違いにしてしまう物語。
戸塚式の問題は、単に「厳しすぎた」ことではない。
どんな結果が出ても、自分の教育法だけは正しいままでいられる構造を持っていたこと。
それが、最も危うかったのではないかと思う。

コメント