あるポストを読んだ。
「この国では、個人商店が次々と潰され、静かに消えていきます」
そんな書き出しだった。
近所にあった駄菓子屋、魚屋、肉屋、タバコ屋、酒屋、米屋。
そうした小さなお店がなくなり、大型店舗やコンビニに取って代わられていく。
昔の日本は賑やかで、温かかった。
今の日本は、税金が重く、治安も悪くなり、子どもたちに残したい姿から遠ざかっている。
そういう趣旨の文章だった。
最初に読んだとき、私の中にはたしかに共感もあった。
私もお米は好きだ。小麦より米の方が身体に合う気がするし、今日の晩ごはんもおにぎりだった。
おにぎり、お寿司、カレーライス、カツ丼、牛丼。
日本においしいお米を作ってくれる人たちがいて、米を中心にした食文化が今も残っていることは、素直にありがたいと思う。
けれど、同時に強い違和感もあった。
その文章には、「では、私は何をするのか」がほとんど見えなかったからだ。
個人商店が潰された。
昔の温かい日本が失われた。
政治が悪い。
税金が重い。
外資が悪い。
アメリカの影響が悪い。
戦後教育が悪い。
そういう大きな言葉は出てくる。
でも、では今日、自分はどこで買い物をするのか。
続いてほしい個人店で、少し高くても買うのか。
米を守りたいなら、どの米を買うのか。
昔の温かさを残したいなら、今日、自分は誰に優しさを供給するのか。
そこが見えない。
たぶん、私がそのポストに感じた気持ち悪さは、ここだった。
怒りは、行動の代用品になりやすい。
「日本が壊された」と怒る。
「政治が悪い」と怒る。
「アメリカが悪い」と怒る。
「外資が悪い」と怒る。
怒っている本人の中では、社会に関わっている感覚がある。
正しいことを言っている感覚がある。
世の中の間違いを見抜いた感覚がある。
でも、そこで終わるなら、現実は何も変わらない。
米は買われていない。
個人商店には行っていない。
地域には関わっていない。
政策も読まれていない。
自分の食卓も、買い物も、生活習慣も変わっていない。
つまり、怒りは行動している気分をくれる。
でも、行動そのものではない。
これは、市役所で受けるクレームにも少し似ている。
「バスの運転手が荒い運転をしていた。けしからん。市役所は何をしているんだ」
そう怒って電話してくる人がいる。
本当に危険な運転があったなら、改善は必要だ。
でも改善のために必要なのは、本来なら日時、路線、場所、車両、具体的な状況だ。
ところが、怒りが主役になると、目的が「安全改善」から「誰かを叱りつけること」にズレる。
本人の中では、公共のために怒っている。
けれど、実際には、改善に必要な情報よりも、怒りの量だけが多い。
今回のポストにも、それに近いものを感じた。
米を守りたいなら、米を買う。
個人商店を守りたいなら、個人店で買う。
昔の温かさを残したいなら、自分が誰かに温かくする。
そこに降りればいい。
でも、「日本が壊された」という物語に入ると、人は被害者の席に座ることができる。
被害者の席は、楽だ。
自分の買い物も、生活習慣も、無関心も、便利さを選んできたことも、見なくて済む。
「壊された」と怒るのは、被害者の席。
「では今日、自分は何をするか」と問うのが、主体の席。
たぶん、多くの人はこの移動のところで止まる。
なぜなら、主体の席に移るにはコストがかかるからだ。
少し高い米を買う。
個人店に行く。
炊飯する。
情報を調べる。
政策を読む。
不便を引き受ける。
地域と関わる。
どれも地味で、面倒で、続ける必要がある。
一方で、「日本が壊された」と怒ることは、すぐできる。
SNSに投稿すれば、同じ怒りを持つ人たちが集まってくる。
いいねがつく。
リポストされる。
自分は目覚めた側にいるような気持ちになる。
けれど、それはもしかすると、怒りを行動に変える装置ではなく、怒りをネットの中で消費して鎮める装置なのかもしれない。
怒らせる。
謎を解かせる。
敵を見つけさせる。
仲間と騒がせる。
そして、少しすっきりして終わる。
でも、炊飯器のスイッチは押されていない。
米は怒りでは炊けない。
個人商店はノスタルジーでは残らない。
伝統は、誰かが守ってくれるものではなく、今日の生活の中で選ばれ続けることでしか残らない。
本当に昔の温かさを残したいなら、昔を懐かしむだけでは足りない。
昔の大人たちが自分にしてくれたように、今度は自分が、誰かに優しさを供給する側に回らなければならない。
それは大げさなことではない。
店員にありがとうと言う。
配達員をねぎらう。
続いてほしい店で買う。
お米を炊く。
誰かにおにぎりを作る。
少し高くても、残ってほしいものにお金を払う。
たぶん、伝統を守るとは、そういうことなのだと思う。
「日本を守る」と叫ぶより、今日の晩ごはんにおにぎりを食べる。
「昔はよかった」と嘆くより、今日、目の前の誰かに少しだけ優しくする。
そういう地味な行動の積み重ねだけが、結局、未来の誰かにとっての「昔はよかった」を作るのかもしれない。

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