第4回 ワクワクには足場がある(ワクワクは、誰の足場の上に咲いているのか)

第4回 ワクワクには足場がある

「ワクワクに従う」

この言葉は、とても明るい。

自分の好きなことをする。
本音に従う。
心が動く方へ進む。
世間の正解ではなく、自分の内側の感覚を信じる。

そう言われると、どこか解放される感じがある。

会社、学校、親、社会、常識、肩書き、年収、評価。そうしたものに縛られて生きてきた人にとって、「ワクワクに従っていい」という言葉は、自分を取り戻す合図のように聞こえる。

たしかに、人は自分の感覚を抑え込みすぎる。

本当は休みたいのに、休めない。
本当は嫌なのに、嫌だと言えない。
本当はやってみたいことがあるのに、年齢やお金や世間体を理由に諦める。
自分の好き嫌いよりも、他人からどう見られるかを優先する。

そうしているうちに、自分が何に心を動かされるのかさえ、分からなくなってしまう。

だから、「ワクワクに従う」という言葉には、たしかに治癒的な力がある。

しかし、ここでもまた、私は立ち止まりたい。

そもそも人は、何にワクワクできるのだろうか。

ワクワクとは、純粋に魂の奥から湧いてくるものなのだろうか。
それとも、もっと現実的に、その人がこれまで何を見て、何を経験し、何を許され、何を知り、どんな足場を持っているかによって、かなり形づくられているものなのだろうか。

私は、後者の要素がかなり大きいと思っている。

人は、まったく知らないものには、なかなかワクワクできない。

もちろん、想像力というものはある。人間は、現実に見たことがないものでも、空想することができる。たとえば、惑星エックスにガス生命体がいて、高度な文明を築いている、というような物語を考えることもできる。

しかし、その空想でさえ、完全な無から生まれているわけではない。

惑星。
ガス。
生命体。
文明。
高度。
社会。

こうした言葉や概念は、すでに自分がどこかで得た経験や知識の組み合わせである。私たちは、知っているものを分解し、組み替え、拡張することで、知らないものを想像している。

つまり、想像力でさえ、経験に依存している。

これは、「やりたいこと」についても同じである。

人が何かを「やりたい」と思うためには、まず、それが存在することを知らなければならない。

ピアノを見たことがない人は、「ピアニストになりたい」とは思いにくい。
裁判という制度を知らない人は、「弁護士になりたい」とは思いにくい。
研究者という生き方を知らない人は、「研究者になりたい」とは思いにくい。
海外旅行をしたことも、周囲に行った人もいなければ、「世界を旅したい」というワクワクは具体的な形を持ちにくい。

もちろん、後から知って目覚めることはある。大人になってから新しい世界を知り、そこに強く惹かれることもある。

しかし、その「知る」機会自体が、すでに不平等である。

本が家にあるか。
親が本を読むか。
旅行に連れて行ってもらったか。
美術館や博物館に行ったことがあるか。
習い事をしたことがあるか。
周囲に大学へ行った人がいるか。
医師、弁護士、研究者、行政職員、芸術家、経営者、職人など、さまざまな生き方をしている大人に触れたことがあるか。
インターネットを自由に使えたか。
静かに勉強できる机があったか。
失敗しても戻れる家があったか。

こうした条件が、人の「やりたいこと」の地図を作っている。

ワクワクは、空中に浮かんでいるものではない。
それは、経験という土の上に生える。

だから、「ワクワクに従えばいい」という言葉は、一見すると平等に見えるが、実際にはかなり不平等な言葉である。

なぜなら、人によって、ワクワクできる選択肢の数も、質も、距離も、まったく違うからである。

たとえば、「旅行に行きたい」というワクワクがある。

この言葉だけを聞けば、誰にとっても同じように見える。

しかし、実際にはまったく違う。

フルタイムで働いていて、休みもお金も限られている人にとっての「旅行に行きたい」は、一泊二日の熱海旅行かもしれない。
数か月先の連休に、なんとか有給をつけて、安い宿を探し、交通費を計算しながら行く旅行かもしれない。

一方で、資産が何百億円もあり、すでにリタイアしている人にとっての「旅行に行きたい」は、世界一周クルーズかもしれない。
あるいは、淡路島のリゾートに半年滞在することかもしれない。
海外の別荘を転々とすることかもしれない。

同じ「旅行に行きたい」でも、その中身はまったく違う。

もちろん、だからといって、熱海一泊二日のワクワクが、世界一周クルーズのワクワクより劣っているわけではない。
楽しさは、金額に比例しない。

一杯百万円のワインが、一杯百円のワインの一万倍おいしいわけではない。
一泊数十万円の宿が、安い民宿の一万倍心に残るわけでもない。
ベランダの小さな鉢植えが、豪邸の庭園よりつまらないわけでもない。

しかし、それでも、選択肢の広さには差がある。

ワクワクの規模。
ワクワクの持続時間。
ワクワクに失敗できる余白。
ワクワクを試すための初期費用。
ワクワクを続けるための時間。
ワクワクを支える人間関係。

そこには、経済資本の差が露骨に出る。

「ひたすらダラダラ寝ていたい」というワクワクでさえ、条件によってまったく違う。

湿った万年床で、寝返りを打つたびに腰が痛くなる布団で寝るのか。
高級なベッドで、清潔なシーツとシルクのパジャマに包まれて眠るのか。
明日の家賃を心配しながら横になるのか。
仕事の連絡も入らず、安心して休める環境で横になるのか。

同じ「寝ていたい」でも、体験の質は違う。

植物を育てることもそうである。

私は、ベランダで植木の植え替えをするだけでも楽しい。小さな鉢を動かし、土を混ぜ、根の状態を見て、水をやる。それだけでも、十分に心が満ちる。

しかし、ある人は、豪邸の庭にトラックで大量の土を運び込み、庭全体の土壌を入れ替え、本格的なガーデニングを楽しむことができる。

どちらも、植物を育てるワクワクである。
どちらも、本物である。
しかし、規模は違う。

この違いをどう考えるか。

私は、ワクワクには少なくとも三つの資本が関わっていると思う。

一つ目は、経済的資本である。

お金があれば、試せることが増える。
旅行に行ける。
道具を買える。
習い事ができる。
失敗してもやり直せる。
時間を買える。
安全を買える。
環境を整えられる。

二つ目は、文化的資本である。

何を知っているか。
何を見たことがあるか。
どんな言葉を持っているか。
どんな世界が存在することを知っているか。
自分がそこへ向かってよいと思えるか。

文化的資本が豊かな人は、「やりたいこと」の候補が多い。人生の地図に、たくさんの道が描かれている。

三つ目は、心理的資本である。

自分はやってもいいと思えるか。
失敗しても終わりではないと思えるか。
誰かに助けを求めてよいと思えるか。
自分の欲求を恥じなくてよいと思えるか。
未来に対して、最低限の安心感があるか。

この心理的な足場がないと、人はワクワクどころではない。

明日の住まいが不安な人に、「魂のワクワクに従いましょう」と言っても、それは響かないかもしれない。

今日の食費に困っている人に、「好きなことをしていれば宇宙が応援してくれます」と言っても、それは残酷かもしれない。

家庭に居場所がなく、虐待や貧困や孤立を経験してきた人に、「あなたが本当に望む人生を創造しましょう」と言っても、その人はそもそも、自分が望んでよいという感覚を持てないかもしれない。

ここで、養護施設を出る十八歳の子のことを考える。

その子は、勉強も、訓練も、習い事も十分にできなかった。
それらが人生に必要だと教えてくれる大人もいなかった。
仮に情報として知っていたとしても、受けるためのお金がなかった。
進学のための費用も、保証人も、住まいも、安定した支えも乏しい。
失敗したときに帰れる実家もない。

その子に対して、

「ワクワクに従えば、何にでもなれる」

と言えるだろうか。

歯科医になりたい。
弁護士になりたい。
漫画家になりたい。
野球選手になりたい。
大学に行きたい。
地方公務員になりたい。

願うことはできる。

しかし、現実には、それぞれに膨大な足場がいる。

歯科医になるには、学力、学費、受験環境、長期の教育、国家試験がいる。
弁護士になるにも、学力、学費、時間、法律教育、試験、生活費がいる。
漫画家になるにも、画材、時間、訓練、作品を見せる機会、支える環境がいる。
野球選手になるには、幼少期からの練習環境、道具、指導者、試合経験、身体づくりがいる。
公務員試験でさえ、基礎学力、試験対策、安定した生活、情報、勉強時間がいる。

ワクワクだけでは橋を架けられない距離がある。

もちろん、例外はある。
厳しい環境から這い上がる人もいる。
大人になってから学び直し、道を開く人もいる。
支援者と出会い、人生が変わる人もいる。

だから、可能性を完全に閉ざすべきではない。

しかし、可能性がゼロではないことと、「ワクワクすれば大丈夫」と言うことは違う。

ワクワクを現実にするには、足場がいる。

教育。
住居。
食事。
健康。
安全。
情報。
メンター。
時間。
お金。
道具。
失敗できる余白。
戻れる場所。
制度的支援。

これらがあって初めて、ワクワクは現実へ向かう力を持つ。

ここを見落としたワクワク論は、どうしても上澄みの人の言葉になってしまう。

ある程度、生活が安定している。
住む場所がある。
ネット環境がある。
スマホがある。
本を読める。
発信できる。
失敗しても即座に路上に出るわけではない。
周囲に応援してくれる人がいる。
過去に教育や職歴を得ている。
何かを売るための言葉や技能がある。

そういう人にとって、「ワクワクに従う」は機能しやすい。

嫌な会社を辞めて、発信を始める。
オンラインサロンを作る。
ハンドメイドを売る。
講座を開く。
地方へ移住する。
自然に近い暮らしを始める。

それは、その人にとっては本当に人生の解放かもしれない。

しかし、それをすべての人に向かって語るなら、足場の違いを見なければならない。

あなたが「会社を辞めても大丈夫」と言えるのは、なぜか。
あなたが「好きなことで生きる」と言えるのは、なぜか。
あなたが「自然に近い暮らしをしよう」と言えるのは、なぜか。
あなたが「お金より信頼」と言えるのは、なぜか。

そこには、すでに持っている資本があるのではないか。

学歴。
職歴。
家族の土地。
実家。
貯蓄。
健康。
発信力。
文化資本。
人間関係。
フォロワー。
動画編集や文章化の能力。
一定の社会的信用。

それらがある人の「ワクワク」と、それらをほとんど持たない人の「ワクワク」は、同じ言葉で語れても、同じ条件ではない。

ここに、私の大きな違和感がある。

「ワクワクに従え」という言葉は、個人の内面に向かっているように見える。
しかし、本当は、社会の足場に深く依存している。

人が何にワクワクできるかは、すでに社会によって形づくられている。

だから、ワクワク論を本当に大切にしたいなら、問うべきことは一つ変わる。

「あなたは何にワクワクしますか」

だけでは足りない。

「あなたがワクワクできるだけの経験を、これまで社会は与えてきましたか」
「あなたがワクワクを試せるだけの余白を、社会は用意していますか」
「あなたがワクワクに失敗しても、生活が壊れない仕組みがありますか」
「あなたがまだ知らないワクワクに出会える場がありますか」

こう問わなければならない。

ワクワクは、個人の魂からただ湧いてくるものではない。
それは、教育、文化、経験、制度、安全、時間、お金、人間関係の上に咲く。

花である。

そして、花が咲くには、土がいる。
根がいる。
水がいる。
光がいる。
季節がいる。
手入れがいる。

花だけを見て、「咲けばいい」と言うのは簡単である。

しかし、咲けない種に向かって、「あなたがワクワクしていないからだ」と言うのは、あまりに酷である。

本当に必要なのは、すべての人に同じ花を咲かせることではない。
すべての人が、自分の花を探せるだけの土壌を持てるようにすることである。

それは、スピリチュアルの話に見えて、実は公共政策の話である。

教育。
図書館。
奨学金。
住宅支援。
職業訓練。
公共交通。
福祉。
医療。
文化施設。
地域の居場所。
相談支援。
子どもの体験機会。
失敗してもやり直せる制度。

これらは、ワクワクとは遠い、地味な制度に見えるかもしれない。

しかし、実際には、人がワクワクできる範囲を広げるための土壌である。

図書館があるから、知らない世界に出会える。
公共交通があるから、移動できる。
奨学金があるから、学び続けられる。
住宅支援があるから、生活を立て直せる。
職業訓練があるから、新しい仕事に挑戦できる。
文化施設があるから、芸術に触れられる。
相談窓口があるから、孤立から抜け出せる。

ワクワクは、制度の反対側にあるものではない。

むしろ、よい制度は、人がワクワクできる可能性を広げる。

だから私は、「ワクワクに従え」という言葉を聞くたびに、その足元を見たくなる。

そのワクワクは、誰の足場の上に咲いているのか。
そのワクワクを可能にしたものは何か。
そのワクワクを持てなかった人は、なぜ持てなかったのか。
そのワクワクを現実にできない人には、何が足りないのか。

ここを見ずに、ただ「ワクワクに従え」と言うなら、その言葉はかなり危うい。

それは、ある程度足場を持っている人たちの合言葉になってしまう。

一方で、足場を持たない人には、

「あなたがワクワクしていないから」
「あなたが本音で生きていないから」
「あなたが宇宙を信頼していないから」

という、さらなる自己責任の言葉として響いてしまうかもしれない。

私は、ワクワクを否定したいのではない。

むしろ、ワクワクは大切だと思っている。

人が自分の感覚を取り戻すこと。
好きなものに触れること。
自分の人生を他人の評価だけで決めないこと。
心が動く方向へ、小さく進んでみること。

それは、本当に大切である。

ただし、ワクワクを大切にするなら、ワクワクの足場も同じくらい大切にしなければならない。

花を大切にするなら、土を見なければならない。
芽を励ますなら、水を用意しなければならない。
咲けと言うなら、根を張れる場所を整えなければならない。

「ワクワクに従え」

その言葉を、本当に優しい言葉にするためには、

「ワクワクできるだけの足場を、どう作るか」

という問いが必要である。

そして、この問いは、個人の内面だけでは終わらない。

家族の問題であり、教育の問題であり、地域の問題であり、労働の問題であり、福祉の問題であり、公共性の問題である。

つまり、ワクワク論は、社会論まで進まなければならない。

そこまで進んで初めて、「ワクワク」は、上澄みの自己実現ではなく、より多くの人に開かれた生の可能性になるのだと思う。

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